ものすごく俯瞰してみたとき、
映画とはなにか?を問うと、こう言えるのではないかと思う。
映画とは「ショウ」である、
だと少し弱い。
映画館のスクリーンで、
ファッションショーをそのまま流したり、
サーカスをそのまま流したり、
スポーツ試合をそのまま流しても、
「映画を見たなー」とはならない。
そのコンテンツを見ただけだ。
映画というコンテンツの、
映画であるというアイデンティティはなにか?
SFXでもCGでもない。ゲームにもCMにもある。
人間ドラマ、だとまだ弱い。
日常系などをゆるゆるとスクリーンではわざわざ見ない。
金がかかってる、だけでもない。
金がかかってるのは映画が一番だけど、
金をかければ映画になるわけではない。
コンフリクト、でもまだ弱い。
コンフリクト自体はあらゆるスポーツや、
戦争にも経済にもある。近所の仲悪い二人の間にもある。
カタルシス。近い。
しかし宗教的体験や、麻薬や酒でもそれを得られる。
で、突き詰めていくと、
「ある成功譚」と言えるのでは?
と思ったのよね。
成功譚というからには、
成功が最後に必須だ。
つまりハッピーエンドということだ。
失敗譚でよいか?
バッドエンドの物語は良いだろうか?
他にたくさん頭が緩いハッピーエンドばかりがあるとき、
リアリティのある苦味がよい、
となるかもしれない。
安易な成功くらいならば、信じられる失敗、
という考え方もなくもない。
だけどそれが人気になるかは、
周囲次第だと思っておくと良い。
みんなが欲しいものは、
たとえ安易だとしても成功譚だろう。
見てて幸せになれるからね。
わざわざ金を払って、痛みや苦味が欲しい人は、
ふつう変態といわれる。
ブラックコーヒーは僕は美味いと思うけど、
それを分かるにはだいぶかかるらしい。
日本茶の渋味なんて、なかなか理解されないよね。
ということで、
なんらかのハッピーエンドが映画である。
そして、成功譚というからには、
何かしらの行動の結果、成功を掴んだ、
ということだ。
ラッキーなタナボタで成功するのは、
成功譚とはいわない。
なんらかの努力や行動や試行錯誤の結果、
ついに成功を掴むから成功譚なのだ。
つまり、行動と、途中の失敗や小成功は必須になる。
行動をするためには、
なぜそれをやろうと思ったのか?
なぜそれを途中で辞めなかったのか?
の理由が必要だ。
それを動機と呼ぶ。
動機があるから人はやる。
動機がなくてもやるのは自動機械や「仕事だから」程度の、
弱い行動である。
弱い行動で掴む成功は成功譚とはいわない。
つまり、成功するには成功するだけの、
動機が必要だ。
すなわち、
「成功譚」ということばに、
ハッピーエンド、自力行動、失敗や小成功、
動機、
という必要な要素がほぼ入っている。
そして「ある」成功譚とわざわざいったのは、
「どこにでもある世界で、
あり得そうな話」
という意味で言っている。
もちろん物語の主人公は、
ある程度は他より能力があるものだけど、
たとえばアインシュタインにしかなし得なかった、
相対性理論の成功譚は、
映画にならない。
アインシュタインしか出来ないからね。
そうではなく、
まあまあ普通の人で、
観客にも「これが自分だったら」「これなら自分にも出来そう」
「もし主人公の能力くらいあれば自分もできる」
などと思わせる娯楽、
ということである。
なにによって?
感情移入だ。
どこかの別の世界のどこかの主人公は、
自分たちと関係ない世界の生き物ではあるが、
「自分と同じところがある」と思うと、
人は関心を持つのであった。
それは血液型がAB型だ、とか、
年収450万であるとかのスペックではない。
「もしこの人と同じ立場や状況に追い込まれたら、
自分でも同じ反応をするだろう」という、
同情や思い入れ効果で、
同じところを発見させるとよいのだ。
そうすると、「すべてのスペックの人」を、
まきこめるわけ。
スペックじゃない、状況や思いなのだ、
と考えると、感情移入はうまくいく。
多くの映画は悲劇からはじまる。
悲劇からだとハッピーエンドと対比的になりやすく、
駆け上がる感覚が気持ちいいからで、
同時に悲劇は感情移入しやすいからだ。
大抵の観客は幸福ではない。
幸せな人はたぶん映画を見ない。
だから、不幸なことに同調性がある。
私はそれなりに不幸だが、
この人も似たような不幸の中にいて、
もし私がこの人のような不幸の中にいたら、
この人と同じように感じたり、ふるまうだろう、
と思うと、
感情移入しやすいからだ。
これらの計算をしている映画は、
どこか他の世界の、
悲劇や不幸からはじまり、感情移入を伴ない、
動機がうまれ、
行動し、
失敗や小成功を経て、
ついに成功してハッピーエンドになる。
これを、「ある成功譚」と縮めたわけ。
できるだけ他の世界が良い。
自分たちと近いと、
リアリティが変だと気になってしまうからだ。
近いほうが感情移入しやすいと思うのは誤りだ。
人には近親憎悪があり、
「そんな成功できるわけがない」と、
否定に陥りやすくなり、
映画的成功に必要な、
カタルシスを伴う大成功まで至らない。
だから、カタルシスを伴う大成功は、
「いまここ」よりも遠いほど、
リアリティの枷がなくなりやすい。
今ならケータイがあれば済むことも、
「ケータイのない時代」の話をすれば、
「ケータイがないのかー、たいへんだな」と、
想像をめぐらせることができる。
そしてその「想像の楽しさ」こそ、
物語を味わうということである。
この味わいは、近い世界では起こらない。
遠い世界を理解するときに、
「こうだとしたらこうだろう」と、
与えられる情報と想像の間で起こる。
というわけで、
「ある成功譚」を書きなさい。
それが映画の脚本である。
もちろん、カタルシスやコンフリクトや、
金がかかっているほどおもしろい。
ショウとして完成度が高い方がおもしろい。
だけど、絶対必要な、映画の根幹は、
「ある成功譚」として、
おもしろいか、出来が良いか、完璧か、
人生を変えるか、世界を変えるか、
だね。
2024年08月12日
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