2024年08月12日

映画とは「ある成功譚」である

ものすごく俯瞰してみたとき、
映画とはなにか?を問うと、こう言えるのではないかと思う。


映画とは「ショウ」である、
だと少し弱い。

映画館のスクリーンで、
ファッションショーをそのまま流したり、
サーカスをそのまま流したり、
スポーツ試合をそのまま流しても、
「映画を見たなー」とはならない。
そのコンテンツを見ただけだ。

映画というコンテンツの、
映画であるというアイデンティティはなにか?

SFXでもCGでもない。ゲームにもCMにもある。

人間ドラマ、だとまだ弱い。
日常系などをゆるゆるとスクリーンではわざわざ見ない。

金がかかってる、だけでもない。
金がかかってるのは映画が一番だけど、
金をかければ映画になるわけではない。

コンフリクト、でもまだ弱い。
コンフリクト自体はあらゆるスポーツや、
戦争にも経済にもある。近所の仲悪い二人の間にもある。

カタルシス。近い。
しかし宗教的体験や、麻薬や酒でもそれを得られる。


で、突き詰めていくと、
「ある成功譚」と言えるのでは?
と思ったのよね。

成功譚というからには、
成功が最後に必須だ。
つまりハッピーエンドということだ。

失敗譚でよいか?
バッドエンドの物語は良いだろうか?
他にたくさん頭が緩いハッピーエンドばかりがあるとき、
リアリティのある苦味がよい、
となるかもしれない。

安易な成功くらいならば、信じられる失敗、
という考え方もなくもない。
だけどそれが人気になるかは、
周囲次第だと思っておくと良い。

みんなが欲しいものは、
たとえ安易だとしても成功譚だろう。
見てて幸せになれるからね。
わざわざ金を払って、痛みや苦味が欲しい人は、
ふつう変態といわれる。

ブラックコーヒーは僕は美味いと思うけど、
それを分かるにはだいぶかかるらしい。
日本茶の渋味なんて、なかなか理解されないよね。


ということで、
なんらかのハッピーエンドが映画である。

そして、成功譚というからには、
何かしらの行動の結果、成功を掴んだ、
ということだ。

ラッキーなタナボタで成功するのは、
成功譚とはいわない。
なんらかの努力や行動や試行錯誤の結果、
ついに成功を掴むから成功譚なのだ。

つまり、行動と、途中の失敗や小成功は必須になる。

行動をするためには、
なぜそれをやろうと思ったのか?
なぜそれを途中で辞めなかったのか?
の理由が必要だ。
それを動機と呼ぶ。
動機があるから人はやる。
動機がなくてもやるのは自動機械や「仕事だから」程度の、
弱い行動である。
弱い行動で掴む成功は成功譚とはいわない。

つまり、成功するには成功するだけの、
動機が必要だ。

すなわち、
「成功譚」ということばに、
ハッピーエンド、自力行動、失敗や小成功、
動機、
という必要な要素がほぼ入っている。

そして「ある」成功譚とわざわざいったのは、
「どこにでもある世界で、
あり得そうな話」
という意味で言っている。

もちろん物語の主人公は、
ある程度は他より能力があるものだけど、
たとえばアインシュタインにしかなし得なかった、
相対性理論の成功譚は、
映画にならない。
アインシュタインしか出来ないからね。

そうではなく、
まあまあ普通の人で、
観客にも「これが自分だったら」「これなら自分にも出来そう」
「もし主人公の能力くらいあれば自分もできる」
などと思わせる娯楽、
ということである。

なにによって?
感情移入だ。

どこかの別の世界のどこかの主人公は、
自分たちと関係ない世界の生き物ではあるが、
「自分と同じところがある」と思うと、
人は関心を持つのであった。

それは血液型がAB型だ、とか、
年収450万であるとかのスペックではない。
「もしこの人と同じ立場や状況に追い込まれたら、
自分でも同じ反応をするだろう」という、
同情や思い入れ効果で、
同じところを発見させるとよいのだ。

そうすると、「すべてのスペックの人」を、
まきこめるわけ。

スペックじゃない、状況や思いなのだ、
と考えると、感情移入はうまくいく。


多くの映画は悲劇からはじまる。

悲劇からだとハッピーエンドと対比的になりやすく、
駆け上がる感覚が気持ちいいからで、
同時に悲劇は感情移入しやすいからだ。

大抵の観客は幸福ではない。
幸せな人はたぶん映画を見ない。
だから、不幸なことに同調性がある。
私はそれなりに不幸だが、
この人も似たような不幸の中にいて、
もし私がこの人のような不幸の中にいたら、
この人と同じように感じたり、ふるまうだろう、
と思うと、
感情移入しやすいからだ。

これらの計算をしている映画は、
どこか他の世界の、
悲劇や不幸からはじまり、感情移入を伴ない、
動機がうまれ、
行動し、
失敗や小成功を経て、
ついに成功してハッピーエンドになる。


これを、「ある成功譚」と縮めたわけ。


できるだけ他の世界が良い。
自分たちと近いと、
リアリティが変だと気になってしまうからだ。
近いほうが感情移入しやすいと思うのは誤りだ。
人には近親憎悪があり、
「そんな成功できるわけがない」と、
否定に陥りやすくなり、
映画的成功に必要な、
カタルシスを伴う大成功まで至らない。

だから、カタルシスを伴う大成功は、
「いまここ」よりも遠いほど、
リアリティの枷がなくなりやすい。

今ならケータイがあれば済むことも、
「ケータイのない時代」の話をすれば、
「ケータイがないのかー、たいへんだな」と、
想像をめぐらせることができる。

そしてその「想像の楽しさ」こそ、
物語を味わうということである。
この味わいは、近い世界では起こらない。

遠い世界を理解するときに、
「こうだとしたらこうだろう」と、
与えられる情報と想像の間で起こる。



というわけで、
「ある成功譚」を書きなさい。

それが映画の脚本である。


もちろん、カタルシスやコンフリクトや、
金がかかっているほどおもしろい。
ショウとして完成度が高い方がおもしろい。

だけど、絶対必要な、映画の根幹は、
「ある成功譚」として、
おもしろいか、出来が良いか、完璧か、
人生を変えるか、世界を変えるか、
だね。
posted by おおおかとしひこ at 08:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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