汽水域というのは、
河口と海が混ざる領域のことをいう。
大きな川の河口の淡水と、
湾からの海水が混ざり、
多様な生物環境を産むことで知られる。
物語というのは、
こうした「混ざり合うところ」で起きる。
単一で均一な環境下では、
すでに大体決着がついている。
そこに何かを起こそうとしても、
バランスを根こそぎ変えるのは難しい。
権力者は権力の座に居座るし、
それを維持する仕組みをつくっているだろう。
弱者は這い上がれず、
仮に能力があっても下層民だろう。
安定した社会は発展しない。
現状維持する力が強い。
(失われた日本の30年は、
高度成長した姿を維持するために使われて、
その維持力を失いつつある状態、
と捉えることもできる)
海水には海水の、
淡水には淡水の安定した世界がすでにあり、
容易にはひっくり返らない。
ところが汽水域だと変わってくる。
適宜混ざることで、
これまでの常識が通用しなくなるからだ。
これまでの世界とは全く異なる原理の者たちと出会い、
価値観を競ったり、変容する必要が出てくる。
新しい戦い方やあり方を編み出さないと死ぬかもしれない。
偶然活路が発見されたり、
偶然勝利の道が閉ざされたりする。
安定していない世界だからだ。
物語のパターンで、
旅人が村にたどり着くところから始まったり、
転校生の初日だったり、
ある現場に呼ばれるところだったり、
別の世界からの使者がやってきたり、
別の民族との出会いから始まるのは、
こうした汽水域から始めてるわけだ。
物語とは、ごちゃごちゃが起こり、
それらが安定するまでを描くものである。
ということは、
そのごちゃごちゃは、
すでに安定した世界よりも、
汽水域のほうがダイナミックになるわけ。
ということは、
汽水域のほうが面白い話になる可能性が高い。
長年連れ添った夫婦よりも、
初めて出会った中学生のほうが、
恋はドラマチックなのだ。
そして三人目が現れ、三角関係になるほうが、
ドラマチックなのである。
転校生がクラスを変えていく話や、
ある村によそものがやってくる話や、
ある部族とある部族が出会う話や、
クズの寄せ集めが世界を変えていく話や、
コジキが王様になる話や、
異教徒が紛れ込む話や、
関西人が一人混じったり、
黒人や女が混じったり、
異人や宇宙人が混じったりするのは、
汽水域をつくるためである。
ただ異なる者が混じっても、
混じっただけで意味はない。
混じったことで、
コンフリクトが起きて初めてエンジンになる。
関西人が納豆でケンカしたり、
男子校に女子が紛れ込んで女子トイレがないと騒いだり、
とにかく問題が起こらなければコンフリクトではない。
コンフリクトは、
異なるものの間に起こる。
つまり、汽水域とは、
コンフリクトを起こしやすい環境というわけ。
変革の時代とか新しいことへの挑戦とか、
簡単な美名でいうけれど、
実際の現場では、
異なる文化の揉め事だらけというわけさ。
企業の合併とかもそうだろうね。
食い合い、主張のしあいばかりになり、
「あそことはやってられん」になるだろう。
アメリカ映画では、
よく部族と部族の戦争が描かれる。
同じことである。
部族と部族をまるで違うビジュアルに描くことで、
見た目でもどっちがどっちか分かりやすくするのが、
ビジュアルで語る映画というものだ。
インディアンと開拓者の話から、
ベトナム戦争から、
宇宙人との戦争から、
アバターまでそうだよね。
つまり、
物語とは、
淡水50と海水50がぶつかり、まざりあい、
ついには半々の汽水になること、
と考えるとわかりやすくなる。
貴種流離譚が昔から人気なのは、
「停滞した村を、よそものが変えていく」
という汽水域の面白さがあり、
ストーリーをダイナミックにできること、
そしてその人が単なる一般人ではなく、
「実は王族の血を引く能力者」であることで、
活躍の根拠を得られるからだ。
ダイナミックでかつそれを制する根拠があり、
大成功に導ける説得力があるわけだね。
ある新入生が、廃部寸前の部活に入り、
停滞した部活を変えてゆく、
そしてその新入生とは、
とある有名選手の息子であった、
なんて話は、貴種流離譚をスポーツものに翻案した形になるわけだ。
ある転校生が来たことでクラスは変わってゆく、
その彼は自信に満ち溢れ、
反対勢力を説き伏せる。
実は彼は元芸能人で、引退して整形したのだ、
なんてのも貴種流離譚の翻案だね。
さて、
あなたの物語は、
そうした汽水域で起こってるか?
異なる文化背景を持つ者たちが出会い、
最初は揉めるけれど、
最後には硬い絆になってるだろうか?
物語はコントラストの中で描かれる。
文化が異なるほど、揉めがひどいほど、
最後の硬い絆は燃えるよね。
2024年08月14日
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