2024年08月15日

異世界を描く

物語の楽しみのひとつは、
「今こことはまったく違う世界に身を浸すこと」だ。

今ここと関係ない世界のほうがしがらみがなく、
自分を解放しやすいからだ。
外国のほうが居心地がよい、とか、
知らない人のほうが悩みを話しやすい、とかに、
似ていると思う。


とはいえ、
まったく違う物理法則が働き、
まったく違う原理で生き物が動いている世界は、
なかなか理解しづらいし、入りにくい。

中学生ごろに読んだSF「レンズマン」の中に、
ハイウェイ上の星で発達した車輪型の生物が出てくるくだりがあるが、
分らな過ぎて、入り込めず、
そこで挫折した記憶がある。

もしあなたの出身地方のローカルルールで、
まったく全国には通じないものがあったりすると、
分るかもしれない。
理解できないものは理解できないのだ。


しかし、人は異世界に行きたい。

どうすればいいかというと、
「理解できる異世界」にすればいいのだ。


関西人は笑いを大事にする。
だから、東京から来た人は、
話にオチを求められて困惑する。

でもそれは異世界なんだよね。
その良さとか、万能じゃなくて限界もある、
みたいなことが分かってくれば、
それは異世界として面白くなってくるんだよ。

たとえばオチが大事、というのは、
一区切りしやすく、次に話を転換しやすい利点がある。
だから話がどんどん進むという効果がある。
落ちれば忘れやすい、記憶として定着しやすいからだ。

一方、落ちない話は存在しないことになるので、
結論の出ないことに耐えられない可能性もある。
現実はなんでもかんでもオチがつくわけではない。
だから扱う話の種類に限界があるわけ。

単に「笑いが好き」「オチを求められる」しか、
理解していないから、変な国、
という偏見になりがちだ。
その先の観察や考察こそに意味がある。


オチを求められる、
という風に自分に矢印が向くから、嫌になるかもね。
これが娯楽作品だと、
自分に矢印が向けられることがないから、
好きなように浸る権利が発生するわけだ。

ただ単に見るだけでいい娯楽だったら、
その世界に浸ることはとても面白いだろう。
インタラクティブになると、
急に面倒くさくなるかもしれないね。



で、
「今ここから離れたい」のに、
「分からない世界は嫌」という二律背反がある、
ということは覚えておくべきだろう。

ということは、
「今ここから遠い世界」で、
かつ、
「分る世界」になっているといいということだ。


車輪型の生物には感情移入できないが、
彼らがメスを得られない場合、寂しく死ぬ、
という設定を付与するとしよう。
その瞬間、「分る」となるわけだね。

わかる要素があればありさえすれば良い、
というわけでもない。

ポイントは、
「それを知ることで、想像が膨らむこと」だと思う。

車輪型の生物が「分る」となるのは、
ハイウェイのような道を進むことではなく、
「メスをゲットできないとつらいんだろうなあ」
と、「我々が想像する」があるということ。

その、「想像」こそが、
「ここではないどこかで遊ぶ」ということだ。


つまり、
「ここではないどこかを想像する」ことは、
高度な精神の遊びである、
ということである。



聞いたこともない国、
ファンタジーの世界、
SF的な星、
未来世界、
過去にあった世界、
知らない習慣の地方。
なんでもよい。
ここじゃないどこかであればよい。

そのディテールが人を遊ばせるのではない。
「それを知ることで想像が膨らむ」ことが、
遊びの本体なのだ。


昨日聞いた話で面白かったのは、
雪国出身の人の話。
子供の頃からスキーをやるのはなんとなく知ってたけど、
子供ってどんどん成長するから、
ブーツや板その度に買い換えるの?って聞いたら、
「小学校でスキーの授業があるから、
ドッヂボールみたいにたくさんある」んですって。
へえ。そんな想像してなかったよ。

逆に、冬の体育はスキーしかないから、
非雪国の冬の体育、
マラソンやサッカーを冬やると教えたらびっくりしてた。
「サッカーは夏やるもの」という先入観があるんだって。
へええ。

こんなことを考える時、
僕ら非雪国の人は、
雪国に想像が飛んでいて、楽しいわけだ。



「こういう設定だとしたら、
こういうことが起こるんだろう」とか、
「こういう設定だから、
これはこの世界にないのではないか」とか、
「こういう設定のはずだから、
こういうことが起こるなら、
そのあとにこういうことになるだろう」とかだ。

これは、世界観だけでなく、
人間関係でも同様だ。
「この人はこの人が好きなはずだから、
一人でいるとき、好きな人のことをこのように想像しているに違いない」
というのは高度な想像であり、
それは二次創作の原動力のひとつだよね。

二次創作というのは、世界で遊ぶ遊戯である。
想像させる一次の世界で、
想像を働かせる高度な遊びであるわけだ。



想像している間だけは、
現実を忘れることができる。
それは、遊びの定義ですらある。

映画鑑賞、小説鑑賞は、フィクション鑑賞は、
大人の高度な遊びなわけだ。


そのように、
世界をつくるべきだ、
というのがようやく本題だ。

理解できて、分って、
それを分ったことで、想像が広がり、
きっとあれはああなのだろうとか、
これだとするとあれはこうだろうとか、
答えが書いていないのに想像してしまうようなもの。

そのように、世界を創造するのだ。

世界設定だけでなく、
人間関係でも同様だ。

そしてそれは、
物語を経るにつれて、
変化していくのであった。

想像したことが、行動や状況によって変化していく。
決して同じものがあるわけではなく、
どんどん状況が変わり、
世界が変化していく。
想像はそれに追いつくので精一杯。

それがおもしろい物語の条件だと思う。


「おもしろい」にはたくさんの要素があるが、
想像してたのしい、とか、
想像してなかった驚きや納得、も、
おもしろさに含まれると思う。
posted by おおおかとしひこ at 07:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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