2024年08月16日

物語とは「あなたが世界に認められる過程」ではない

メアリースーはなぜ起こるか、
なぜご都合主義になりがちなのか。
その答えはこれなんじゃないかと考える。

つまり、
物語作者は、
物語という架空世界で、「自分が世界に認められる」を描いてしまうから、
客観から遠ざかるのだと。


メアリースーは甘えである。
甘え自体は僕は否定しない。
おっぱいは吸ってもよい。
だが、人前で甘えるな、ということを言っているだけだ。

作品というのは、多数の他人が味わうものであるべきだ。
そこに作者が甘えている様を出すことほど、
恥ずかしいものはないぞ、ということだ。

(鑑賞者が、全員甘えたい気分になり、
そして甘えることを許すストーリーはあり得る。
多くのラノベは共同正犯として、
鑑賞者と作者が甘えた世界を共有することを目的としているものもある。
もちろん、「ふつうの作品」では、
それは前提条件にはない。
ラノベが進化したジャンルともいえるし、
特化した特殊なジャンルともいえる)


で、その奥底には、
「作者自身が世界から認められたい」という承認欲求のようなものがあり、
「私は世界に(このフィクションの中で)認められた」を、
疑似的に書きがち、という話をしている。

主人公が架空世界に認められることで、
疑似体験している、ということだ。


もちろん、
主人公は世界に認められる。

それは、
認められるべきことを成しえたからだ。

悪に勝つとか、
あの子のハートをゲットするとか、
難題を解決するとか、
事件を勝利に導くとか、
大会で優勝するとか、
そういうことを行動によって、
他力ではなく自力でやり遂げたから、
賞賛され、その世界に認められるわけだ。

チートをしたり、
他人にやらせて自分がやったことにしたり、
何にもしていないのに認められるのは、
「おかしいぞ」と言われるわけ。

だから、
世間に認められる方法で、
認められる必要がある。


その過程をすっ飛ばして、
「わたしが認められたいから、
何もせずに認められる主人公を描き、
わたしが認められることを疑似体験しよう」
と欲求だけが強くなると、
その欲求を果たすことだけをやりがちで、
世間が認めることとは関係ない話になりがちだ、
というのが、
メアリースーの正体だと思う。


チェックポイントがある。

主人公が行動して、その結果認められるような成果を出したかどうかと、
それにチートやご都合がなく、
説得力があるか、ということである。

楽勝でやって認められるのはおかしい。
苦労せよ、とは言わないが、
簡単にできることで賞賛はされないだろう。

(でもこれはメアリースー脚本によくあることだ。
本人にとっては簡単なことだが、
周りにとっては奇跡のようなことであり、
「また私何かやっちゃいました?」ってなるのは、
その典型だろう)


あるいは、
作者の感想として、
「わたしは世界に認められた」と、
カタルシスを感じるのは、
その兆候じゃないかと思う。

「主人公が世界に認められた」はただしいが、
「わたしが認められた」は間違いだと思う。

「主人公が世界に認められたという物語をもってして、
それを書いた人はすごいと認められる」はあるかもしれないが、
それは間接的にであって、直接的には関係ない、ということだ。


だから、
「書けたー! わたしは認められたー!」
とカタルシスを作者が感じているのだとしたら、
それは間違った感覚だぞ、
ということを警告しようとしているわけだ。


物語というのは、
間接話法であった。
主人公が認められるのを見て、
鑑賞者も認められるような、疑似的な気分になる、
という仕組みである。

鑑賞者は実は何もしていないのだが、
主人公が苦労して、何かを成しえた様を見て、
自分も認められたような気がして、
よし、主人公のようなことをやってみよう、
と思うことが、
正しい物語のあり方だろう。

他人がチートで認められるものを見て、
「よし俺もチートして楽して認められるぞー」
というのは、間違った物語だ。

最近情報商材などと称して、
楽に儲けられるよ、そうしたらあなたも認められるよ、
という詐欺商法があるが、
それは苦労をしないチートしたい、
という人のマイナスの欲望に根差した気持ちを、
うまく利用しているわけだね。
(そしてラノベも、
その商法を利用している部分がある)

この、負の穴に落ち込まないことだ。


ともすると、執筆中は苦しくて、
ついついこの罠にかかってしまうことがある。
主人公と自分を一体化してしまうと、
区別がつかなくなるところがおっかない。

だから、
常に、外にいて冷静さを持つべきだ、
ということだ。


主人公を描きなさい。
あなたを描かないことだ。

簡単な法則なのだが、
「主人公が世界に認められる」よりも、
恵まれていない作者が、
「わたしが世界に認められる」ことのほうが、
欲望として大きいから、
ついついそっちに流れてしまう、ということである。

承認欲求を満たすならば、
恋人でもつくりなはれ。
その人の承認欲求を満たしてあげたら、
同じだけ返って来る。
それが人間というものだ。


「わたしだけ世界に認められたい」という、
与えていないのにもらうことだけを考えているから、
メアリースーは醜いのである。

ギブアンドテイクの、テイクだけを求めている、
餓鬼であると言えようか。
posted by おおおかとしひこ at 09:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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