になりがちだ。
人間関係、というのはたいしたものではない。
俯瞰してみたら、その人の人生のすべてではない。
その人がやりたいことをすることが人生だとすると、
人間関係は相手がいることだし、
自分の思い通りにはいかないことが多いから、
それに関わっているだけが人生になるべきではない。
理屈ではね。
だけど、多くの場合、
その周りの人間関係がその人の世界のすべてになりがちだ。
職場の悩みのほとんどは人間関係であることが多いという。
仕事が合理的ではないとか、
給料が少ないとかではないらしい。
そこにいる人との関係が悪いから、人はやめていくのだそうだ。
学校にも似ている。
友達がつくれれば学校生活は最高だけど、
友達がいない学校生活を想像するだに、
地獄のような、監獄のようなものだろうな。
新しいクラスになったときの、
まだ不安な状態が、一年かそれ以上続くってことでしょ。
それは辛そう。
もちろん、同じところにとどまらず、
遊牧民のように移動し続ける人生ならば、
その限りではないかもしれないが。
で、
こうしたリアルな感覚は、
物語も同様だということだ。
むしろ、リアルよりも人間関係を掘り下げて、
「劇的にする」ことが物語というものだ。
ただの友情じゃない話。
ただの上下関係じゃない話。
ただの敵対関係じゃない話。
リアルよりもずっとずっと宿命的で、
リアルよりもずっとずっと運命の糸が絡んでいく話。
リアルよりもずっとずっと濃い話。
そういうのが物語的な人間関係というものだ。
むしろ、
物語では、「人間関係がその人の世界のすべて」になるまで、
煮詰めた娯楽である、とすら言える。
その人が属するチームや、
その人が属するコミュニティや、
その人と敵対する人や、
その人が出会っていく人が、
リアルよりも濃く絡み、
対立するところはより対立し、
共同できるところはより共同的な感覚になる。
それが物語に登場する人間関係というものである。
逆にいえば、
物語は人間関係の娯楽である、
などということも可能だ。
だから、
あなたの作品の中の人間関係は、
リアルよりも濃くつくったほうがおもしろくなる。
もちろん、あっさり味に仕上げてもいいよ。
それは全体の計算や設計の範疇だ。
しかし、
フィクション娯楽の中の人間関係は一般に濃いので、
リアルよりもあっさりしていると、
相当あっさりに見えるに違いない。
比較対象はリアルではなく、
他のおもしろい人間関係であるからだ。
ということは、
「リアルよりもおもしろい人間関係」をつくれれば、
その物語は楽しめるということである。
まあ、
リアルな人間関係に飢えている人が、
過剰な報酬としての人間関係をフィクションに求める、
という傾向はなくもない。
そういう受け皿になっているかもしれない。
いずれにせよ、
人間関係はその人にとっての全てであり、
メインに見えているようにつくると、
濃くなる、ということだ。
もちろん、それから外れた、ななめにものを見ている人物もいるに違いない。
それは、濃い人間関係がある前提での、
逆張りができるということに過ぎない。
どの人とどの人が、どういう因縁があり、
どういう関係性を結ぶか。
その糸そのものが物語ではかなりのウェイトを占めているのはたしかだ。
ストーリー展開よりも、
なんなら人気はここで決まることが多いね。
(なぜなら、変化や時間軸を人は認識できず、
人をイコン、媒介にしてしか認識できないから、
という説)
その人たちの関係性を描くのは物語か?
それがそれである状態を描くのは、
設定部である。
それがどう変化していくかを描くのが物語である。
そしてどうして変化するかというと、
状況が変わったからだ。
状況が向こうからやって来る場合もあるし、
誰かが意志をもって行動したから、
周囲の立場や空気が変わってくることもある。
行動は人間関係に波風を立てることになる。
その結果、人間関係が悪化したり、
雨降って地固まるになる場合もある。
色々な変化を経験して、
最終的にハッピーエンドになるのが、
フィクションという安心装置だと思うんだよな。
2024年08月17日
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