2024年08月23日

まるで初めての人生を生きるように

リライトをやっていると忘れがちなこと。


リライトを繰り返していくと、
どうしても「それを知っているがゆえの直し」ばかりになってくる。
あとであれがあるから、今これをやっておかなきゃとか、
あれを既に知っているから、これはこうだ、とか。

ざっくりいうと、新鮮さがなくなり、
段取り臭くなってくるということだ。

それが果たして「体験」だろうか? 
初めて見る人にとって、新しい経験になるだろうか?

書く側にもいろいろ都合がある。
あれを使おうと思っていたが、事情で使えなくなったとか、
あれをする前にこれをしないといけないとか。

でもそんなの、見る人には関係ない。
初めて見る人は、
初めて見るわけだ。
だから、初めて見ても新鮮でなれけば、
新鮮な体験にならない。

観客は、新鮮さにドキドキしたい、
という気持ちを忘れてはならない。

観客だけではない。
物語の中の、登場人物たちでもだ。


当然なのだが、
登場人物は全員人生一周目である。
この先何が起こるかは知らないし、
初めて人生を生きるのだから、
判断ミスもするし、変な期待もするし、
余計な不安もあるし、
リスクに怖がって安パイを取ることもあるし、
ぎりぎりを攻めない。

ドキドキびくびくしながら人生を生きている。

そんな風に書けているか?
ということを強調したい。


ともすれば、
作者の都合で、
人生〇周目みたいな対応になったりすることが、
稀によくあるということだ。

そうじゃない。
全員人生一周目なのだ。
初めてその人生を生きるのである。
初めてその場面に遭遇するのである。
初めてその対処法を迫られるのである。

知らないことだらけで、知識も教訓も持っていない。
カンでやるしかないし、
分っている人に助けを求めるのだ。
一発で成功するわけがなく、
何度も何度も試すのだ。

情けない。物語の登場人物とは思えない。
しかしそれがリアルというもので、
そのリアリティのある体験を、
皆が欲しがっているのだ。


作者がその物語に慣れるのは構わないが、
登場人物がその物語に慣れてはいけない。
いつも、常に、初体験のようにいなければならない。

だからシナリオには少しの無駄がある。
完璧に詰められた設計図ではない。
その余白が、ドキドキする時間だ。
posted by おおおかとしひこ at 07:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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