2024年08月25日

僕らがやっているものは「劇映画」である

当たり前なんだけど、よく考えると、
劇映画と劇映画じゃないものを区別してみるとわかる。


以下のような論点がある。
・偶然を狙ったドキュメントではなく、計算されて練り上げられたものであること
・エンターテイメントが目的。
・結論がある
・事件が起こり、解決するまでを描く



・偶然を狙ったドキュメントではなく、計算されて練り上げられたものであること

ドキュメントやバラエティでは、
「撮れ高」という考え方がある。
とくに狙ってなくても、
偶然撮れたものがよければ使ってしまい、
本来の狙いを無視して、
それをメインにもってきてしてまおうぜ、
結果よければそれでよし、
というやつだ。

その昔、どんなバラエティでも、
放送台本があり、すべてのセリフが書かれていた。
しかしいつの間にか、
四角四面の言葉よりも、生の生きた言葉のほうが訴求力があるとして、
放送台本に「以下アドリブ」なんて文言が増えた。

それでも最初にアナウンサーが番組の趣旨を説明したり、
決まり切った言葉に関しては、
まだ放送台本に文字が書いてあることもある。
本物を見たことのある人はあまりいないかもしれないが、
「ほとんどアドリブなのかよ」と脚本畑の僕は驚いたことがあるな。
だから、芸能人がよく
「いいコメントしたのに、オンエアではカットされてた」とかぼやくよね。
アドリブの素材たちを、
あとで編集で尺に収めることをやっているわけだ。

そうした、偶然に頼ったもの、
作者ではなくほかの人たちの素材を集めてどうこうしようとするのではない、
ということだ。

まあ、偶然にいいセリフが書けたり、
急激にひらめきがあることもなくもないが、
基本的には、
そういうものに頼らない、
「計画されたもの」だということ。
計画的に引き込み、
計画的に夢中にさせ、
計画的に満足までもってゆくものである、
ということだ。

そもそもアドリブに頼るようになったのは、
放送脚本家が、
リアルで生の言葉を脚本に書けなかったからだよね。
演者の言葉にプロの言葉が負ける程度の脚本力しかなかったから、
アドリブに駆逐された、ということだ。

だから、
リアルな言葉で、リアルな気持ちの、
よく練られた計画、である必要が、
脚本にはあるわけだ。

不自然で決まり切った言葉や気持ち、
段取り臭くて見てられないものは、
脚本としてだめだし、
よく練られていない、がたがたの計画は脚本としてだめだということだ。

わたしたちは、
よく練られたリアルに見えるものを提供する。


・エンターテイメントが目的

何を言いたいがために、
そんなものを作るのだろう。

己の主張か。政治的プロパガンダか。
それは劇映画ではない。
劇映画の目的は娯楽である。

そんな大したことを主張しないのだ。
主張して世の中を変えたければ、
映画より演説を選ぶべきだ。
なぜならば、
「何か主張する人ほどうざい」からである。
それは娯楽とは言えない。

嘘だと思うならば、
「エルカンターレ太陽の法」や、
「CASSHERN」を見るべきだ。
それが心にグッとくるならば、
あなたはまだ面白い映画を見たことが無い人だ。
映画に対する感受性がないとすらいえる。

ほんとうにおもしろい娯楽映画とは、
抜群の娯楽を提供して、
少しだけ世の中のことを考えたくなるものである。
その塩梅は娯楽性のほうが高い。

何かの主張をされたいというならば、
「レクイエムフォードリーム」という救いのない映画を見るとよい。
「何のためにこの2時間を見たのか」とバカバカしくなること請け合いだ。


・結論がある

政治的結論や、作者の主張があるべきではないにも関わらず、
劇映画は結論があるべきだ。
なぜならば、
「ただのから騒ぎに付き合うと損した気分になるから」だ。

合コンに行くとしよう。
外れだったとする。
これはドキュメントだから、外れも許容するだろう。
だがこれが劇、つまり他人によって練られた、
劇的計画だったとしたまえ。
何かしらの結論が出ないと納得しないだろうね。
すぐやれる女はろくなものがないとか、
トークがうまく行かないと何にもならないとか、
なんでもいいよ。
うまくやればやれる、でもいい。
結局顔、でもいい。

何かしら結論がないと、
「それに参加する意味がない」と思ってしまう。
「参加して損した」と思ってしまうのだ。
会社の飲み会に参加してなんか意味があるんですか、
という若手がいる。
メリットのないものには参加したくない、
ということだ。
これと劇映画は同じだ。
見て何にもならなかった、だと、
意味がないと思ってしまうわけ。

政治的や自己主張でない、
その映画の意味とは?
それを考えられて、よく練られたものだから、
劇映画なのだ。

嘘だと思うならば、
「マルホランドドライブ」や、
「ゾディアック」などの、
結論の出ていない映画を見るとよい。
なんやこのモヤモヤは、見る意味あったのか、
と思うこと請け合いだ。


・事件が起こり、解決するまでを描く

事件が起こらない映画は劇映画ではない。
事件の起こらないものは、
「そこにいる意味がない」からだ。
事件が起こらず、淡々と日常が続くものに、
「コーヒーアンドシガレッツ」などがある。
2時間これに耐えられたら、
似たようなものをつくればいいよ。
多分無視されるだろう。

そして、
事件が起こっているくせに、
解決していないのも劇映画ではない。
「ゾディアック」は未解決の映画である。
なんのために3時間見たのか、
その時間を返してほしい。


つまり、
劇映画とは、
事件が起こって、それが解決することで、
何か(政治的じゃない、思想的じゃない)の、
結論に至ることである。

そしてそれは、
偶然による何かではなく、
一見リアルに見える、よく練られたものである。
用意周到に計画された何かで、
それを通すことで、
カタルシスが得られて、
意味があるものである。

なんらかの「計画的体験」とでもいえるね。

ヨガの体験教室とかと同じだね。
その価値が分かるように、
計画的に見学の体系があるわけだ。

ただヨガの体験教室と違うのは、
スクリーンで事件と解決をただ見続ける、
ということである。


おそらく、
どんなに形式が変わったとしても、
このフィクションという形式での、
劇映画はなくなるまい。

近年その枠を壊すために、
色々な実験が行われているが、
「きちんと書けた計画」に勝るものはない。
それ以外の何かで実験したんです、新しいでしょ、
などというやつは、
「以下アドリブ」と書いて、
リアルなセリフと展開が書けないやつの言い訳に過ぎない。



つまり、
あなたはゼロからラストまで、
一気通貫する、事件から解決までを書き、
それで何らかの意味を示す、
よく練られた娯楽作品を書くのだ。

難しいよ。
すぐにぶれて横にずれる。
出来ないもんだから、言い訳をして取り繕う。
(よくある言い訳は、リアル感とかライブ感だ。
リアルやライブを計画的に書く能力が自分にはないです、
といっているようなものだ)

そして、
よく練られたものほど、
多くの人を楽しませ、
時を超えて人類の宝物になるだろう。
そして、そうなるものは儲かる。
沢山の人が金を出すからだ。

この、いいものだから金を出す、
といういい循環になるような、
娯楽作品を書くことだね。

エンタメは奥が浅いと思うなら、
奥が深い真のエンタメをつくりなさい。
たとえばロッキーはエンタメでもあり、
深い人生の物語でもある。
それを超えるものを、求められているのだ。


あなたは斬新な名作を書く。
しかしそれは、
すべて劇映画の枠内に収まっている。
劇映画は、すべての物語の集合、
すべての娯楽から見ると、
一部の部分集合である。

映画には全てがあるが、
全ては映画にはない。
そう思って、劇映画を書くことだ。

劇映画とは単なる形式に過ぎない。
外に出るときは服を着る、とか、
575とかの形式だと思えばよい。
posted by おおおかとしひこ at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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