よく勘違いすること。
Twitterから。
> 私の本って書き方を変えても結局は頭の中の映像を文にしているから、自分は見えてるけど文章には現れてないってよくあって。(中略)どう改善しようか。
この人だけを問題にしようとしているわけではない。
こういう話はよく聞くからだ。
イメージ通りかどうかとか、
そういうことをみんな気にしたりする。
これは、根本的な考え方が間違っている。
「頭の中の映像を文章化すること」を、
やってはいけない、まである。
反証してみよう。
1. 何かすでにある映像を、文章化してみなさい。
2. その文章だけを読んでもらい、
元の映像は一切見せず、
漫画や絵が描ける人に、絵を描いてもらいなさい。
または写真が撮れる人に、写真を撮ってもらいなさい。
3. 複数の人にやってもらうとさらによくわかる。
4. 復元できた?
僕は、一つもうまく復元できないと思うよ。
なぜか?
「文章は映像を記録するものではない」からだ。
たとえば写真のアングルを指定する、
技術用語はなくもない。
下手に走って逃げる泥棒がいて、
それ舐めで上手に追いかける警官がいる。
長玉で走る動線はタテ、カメラ側に向かって走って来る。
場所は商店街で光は逆光、
冬場なので白い息が逆光で光る
なんかを指定したとしよう。
これでも、写真家の取る写真は全然違うよ。
絵描きによっても全然違うよ。
だって服装書いてないよね。色指定してないよね。
レンズが何ミリかも指定してないし、
フォーカスは手前なのか奥なのかもない。
それを指定したとしても、
商店街がイメージと違ったら?
そこを指定しても、後ろに見えてる風景が違ったら?
場所も完全に指定する?
そこに走れる距離ある?
たぶん、
「頭の中の映像を文章で記録する」
タイプの人は、
「実際に映像を作ったことがない」人なんだよね。
実際に映像をつくってみればすぐにわかる。
思い通りの場所はないし、
思い通りのキャストはいないし、
思い通りの服もないし
(服というのはシーズンで変わるので、
前よかった服も今廃盤になってて、
なんならダサいまである)、
表情や芝居が思い通りかもわからないし、
天候こそ思い通りにならない。
そして、それが100%イメージ通りかよりも、
「その映像にパワーがある」方が正解だったりする。
だから、
映像をつくるときは、
監督は、
方向性だけつけて、
ディテールはパワフルに遊べるように準備して、
現場の空気をうまくつくって、
イメージよりも強力にするのが仕事だ。
もちろん、
映像というのは予算があるので、
「この日に○カット撮らなきゃいけない」
というノルマの中でやるため、
すべてのカットを重要視できない。
捨てカットもあるわけ。
その中で、この絵がどれだけ重要かは、
ストーリーの中で決まるわけだ。
もしこの絵が重要じゃなければ、
捨てカットになって、
イメージとはまったく違うものになることもあるよ。
だから、
「イメージを文章化する」ことには、
まったく意味がないし、
そもそも目的が違うことになるわけだ。
これは脚本の場合だ。
小説だとどう?
これも反証実験をすればわかる。
ある場面を複数の絵描きに描かせてみなよ。
色もディテールも構図も、キャラクターの顔も表情も、
全然違うものになるはずだ。
どんなに優れた文章であっても、
同じ絵にはならない。
なぜか?
「文章は、絵の指定ではない」からである。
もし、
絵を指定する文章を読むのだとしたら、
そんなに退屈なことはない。
色指定R105G213B12とかを、
ひたすら読むことになる。
これはコーディングであり娯楽じゃないよね。
そして、文章コーディングでは、
一生絵を指定できない。
絵の厳密性を、文章の曖昧性では指定できない。
逆に文章とは、曖昧なところが武器なのだ。
いい小説の文章とは、
「絵がそれぞれの頭に浮かぶように書く」のであり、
「それらが同じ絵であることは保証しない」のだ。
先の例で言えば、
「泥棒が逃げるッ!警官が追うッ!
冬の朝の白い町。二人の吐く白い息だけが二人の共通点だ。」
のように書けばよいわけ。
これが商店街だろうが、
縦気味の望遠レンズかは、関係ない文章にしておくのだ。
そうすると、
勝手に頭の中でそれぞれが想像する。
その想像こそが鑑賞という行為なのだ。
それを「同一にする」のは目的じゃないんだよね。
さて、
じゃあ、
「映像の復元コーディング」が文章の目的ではないとして、
「文章で同一の映像を表現するのは原理的に無理なので、
それを目的にするべきではない」を認めるとしたら、
シナリオには何を書くべきなの?
アクションだ。
それをする動機だ。
結果だ。
それだけでいい。
あなたの頭の中の映像など関係ない。
「走る、追いかける」だけあればよい。
白い息は装飾要素なので、
あってもなくてもよい。
つまり、映像化のコードではなく、
人のやることとその理由と展開を書くのが、
シナリオなのだ。
そして、それが「カメラで撮れるか」を基準にしてるだけの話だ。
撮れるか/撮れないかしか重要ではなく、
「どう撮るか」は指定しない。
それがシナリオだ。
「白い息だけが二人の共通点であった」
は、小説では面白い表現だが、
シナリオではない。
「寒い朝、二人が白い息を吐く」
まではカメラに撮れるが、
二人の共通点かどうかは撮れない。
そしてそれは、いかようにも撮影できる。
逆光か順光かはどっちでも撮れる。
縦気味の絵か、横で並走するか、ドローンかは、
どれでも撮れる。
問題は、
なぜ逃げるのか(何を盗んだのか、なぜ盗んだのか)、
追いかけた先捕まるのか逃すのか、
だ。
その、因果関係を書くことがシナリオであり、
絵はそれを示す道具にすぎない。
だから、
> 頭の中の映像を文にしている
やり方が、100%間違いなのだ。
もしこのやり方をしている人がいたら、
これまでのやり方はすべて間違っている。
これまでの努力は全部無駄だったのだ。
シナリオは、因果関係を示すことで、
意味を暗示する文章群である。
小説はそこを崩して、頭の中に浮かべると面白そうな概念を書く。
どちらも、頭の中の想像をコーディングする作業ではない。
「脳波入力ができたら、
頭の中の映像が小説や脚本にできるのに」
と夢想している人がいるとしたら、
素人である。
映像の文章化行為は、
小説にも脚本にも、一文字も必要とされていない。
2024年09月01日
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