Twitterから。
> 先日も話題になったのだが、学生さんに本を読んで「論ぜよ」というと、その本に書かれてある対象ではなく、その本を読んで生じた自分の心の動きについて報告しようとする学生さんがとても多い。こちらは学生さんの心の動きには興味がなく、対象の方に興味があるので、必然的にすれ違う。
論ずることと、感想を述べることと、
自説を主張することは、
みんな違うことなのだが、
それを誰からも教えられてないのではないか。
最も簡単なのは、
感想を述べることだろうか。
幼少の頃から自分の思うことを書く練習は、
ある程度してるだろう。
言語で思えさえすれば、
まあ書けるだろう。
自説を主張することは、
論ずることより難しい。
オリジナリティのある自説を創作する必要があり、
その妥当性を論じなければならないからだ。
二つのことが必要だね。
論ずることは、その中間だ。
ある論を別の論と比較することが、
論ずることの基本といえようか。
また、ある論の中に、
妥当性がある部分とそうではないところがあり、
それらの妥当性について議論することもできよう。
比較することや議論することは、
あなたの感想とは関係ない世界にある。
数学的厳密性、学問的厳密性、
論理的妥当性など、
客観的な指標に基づく判断のことだ。
そして、その論が基づく前提と推論を評価して、
前提に問題があると前提を変更したり、
別の前提ならばこうであると、
別の論を展開することにある。
また、このような結論に至るには、
このような前提が必要だろう、
などのような逆を論じても良い。
そこにはあなたの感想はない。
純粋な論理の世界である。
もっとも、論ずる方向性にあなたの好みが反映されるかも知れない。
だけど論ずることだけは、
純粋客観であるべきだ。
報道しない自由を選択して、
意図的に結論を誘導するのは論じていない。
議論の公平性(妥当性の前提)を欠くからである。
あることを論じる時に、
片手落ちであれば、
前提が間違っていると指摘するのも議論である。
このような、議論すること、論ずることの、
基本をどこで誰が教えるのかは、
よく分かっていない。
大学で正式に習ったわけでもないな。
数学の教科書で、
「以下を議論する」のようによく書いていたからかしら。
日本語では「議論する」は二人以上の参加者を指す場合が多く、
「論ずる」は一人の主張のニュアンスが強いが、
どちらも同じ意味で使える語ではある。
一人で議論してもおかしくないし、
複数の人で論じ合ってもよい。
だから、
議論でありえるのは、
正しいか、間違っているかだ。
正しいとは言えない、間違ってるとは言えない、
程度のグレーも含む。
個人の気持ちは関係ない。
個人的な気持ちとしては、自分が死ぬ話はしたくないが、
客観的には人が死ぬことは真理である。
自説の主張は、
まだない新しい議論をして、
それが正しいと論じることである。
自説を議論して、
「結果間違ってました」も、議論だ。
大抵の新しい主張は、
論理的に、科学的に正しいか、
すぐには分からないことも多く、
議論すればするほど正しさに近づく。
だから世の中には、
中途半端な自説があふれ、
正しさの判定議論を待っている状態ともいえる。
感想を述べることは、
議論してもよく、
自説を主張してもよく、
他のことを言っても良い。
間違いを言っても問題ないし、
嘘をついても良い。
だから、実は一番難しい。
基準がないからだ。
このとき、「自分の心に正しく従っていること」
を基準としがちだ。
正しさを考えるあまり、
主観的正しさを話してしまう。
自分の考えや思いが偏っているかどうか、
という客観性を持つことはかなり難しい。
だから、正しいから正しいのだ、
という同語反復になる。
そうではない。
論理的正しさとは、
あなたがどのように思っても、
それとは関係ないところに存在する。
あなたがいてもいなくても正しいかどうかを考えることが、
論ずることであり、議論することだ、
で、脚本論に戻すと、
新しいテーマを持った新しい話をつくることは、
自説を論じることなのよね。
それを、客観的直接的議論ではなく、
物語の形式で間接的に表現することなんだよ。
何重にも難しいことなのだ。
2024年09月02日
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