なぜ対照的な二人がいると、ストーリーは分りやすくなるのか。
分りにくいストーリーは対照をうまく使っていないのではないか。
人間は人の間と書く。
人間は単独で存在するのではなく、
人と人の間に存在して、
初めて人間になる。
つまり、人間ドラマとは、ある人間とある人間の間に起こる。
(そして、二人の間だけではなく、別のある人間と、
別のある人間との間にも起こる。
あるいは、人間たちと人間たちとの間にも起こる)
それは、立場も目的も性格も異なる人(たち)
の間に起こる。
対照的なのがよいのは、
差を際立たせやすいからだ。
まったく異なる二人が全く異なるのは、
真逆な時が最大だろう。
だから対照的であることは、まったく異なることを表現しやすい。
だけど、ただ違う、対照的なだけでは、
コントラストがついている絵なだけである。
ストーリーに使うにはまだ足りていない。
テーマと関係ある対照性が重要だと考える。
たとえば。
「怒りっぽい人と、怒りっぽくない人」を用意するとしよう。
それらの差異でもめ事が起こる(コンフリクト)のだが、
今無理やり二人の間でドラマを考えてみる。
A(怒りっぽい人)と、B(怒りっぽくない人)とする。
たとえば、普段Aが怒りっぽくて、
人々から疎まれていて遠ざけられていたとするが、
Bが鬱になりかかっていることを知り、
Aが周囲の人に怒ったとしよう。
Bをみんなで救えよと。
それ自体は褒められることではないものの、
そのことが気づきを与え、
Bが救われた、という話を考えることができる。
これは、対照的な二人の間のドラマである。
あまり褒められた特徴ではない「怒りっぽい」ことと、
その真逆の人に起こったドラマだと言える。
このこととテーマがどう関係するか?だ。
「怒りっぽいことは感情が豊かなことであり、
褒められるべきだ」というわけでもないだろう。
「怒りっぽいことと、怒りっぽくないことの中間を取れば幸せになれる」
という中庸のオチでもあるまい。
二つの対照的なものを扱う場合、
その中点がベストである、というのはつまらない物語である。
対照的なもの、対立するものがあるならば、
それららの軸とは関係ない、第三の軸に結論が行くように止揚する、
というのが物語論におけるアウフヘーベンである。
ということで、たとえば、
「普段短所と思われるものが、長所になることがある」という瓢箪から駒的な結論になるとしようか。
「すべては文脈が決めるのであり、
自分の主観で決めるものではない」ともいえるか。
ということは、これを強化する、
新しいエピソードをつくればいいのだ。
仕事で我慢ならず怒ってしまいそうなAを、
今度はBが助けて謝り、
我慢して仕事を最後まで完遂するように助ける、
という恩返しの場面をつくればいいわけ。
そうすると、
ただ怒ってばかりだと迷惑だし、
ただ怒らないとそれも問題だが、
ものは使いようになる、
という話になるわけだ。
中庸を取らずに、アウフヘーベンするために、
この二つの両極端がある、
と考えるとよい。
とりあえず適当に「怒りっぽい」と「怒りっぽくない」の間でドラマをつくってみたが、
これがテーマと合致するように、
ストーリーをつくっていくわけだね。
テーマから逆算してこの対照をつくる場合もあれば、
逆に面白い対照をつくって、
こういうテーマの話に落とせそう、
と考えることもあるだろう。
あるいは、
最初は対照的でなかった二人が、
あるテーマを描くためには対照的であるべきだ、
という風に、改造を受ける可能性もある。
もちろん、その対照とドラマとテーマの組み合わせの面白みがないと、
詰らないものになるかもしれないが。
そんな風にして、
逆算で対照をつくったり、
ここは対照にしたほうが語りやすいなどと改造したり、
対照だったがあんまり効果がないからやめて、
別の対照部分を強調するなど、
色々やっていくと、
どういう対照とテーマがあるか、練っていくことができる。
あることを描くときに、
その本質の対照的なものを使う時がよくある。
あるスポーツの、
スピードタイプとパワータイプの二人とか、
先日のガラスの仮面では、
役者をするうえで、
本質を掴む泥臭いタイプと、
どのようなものか理解して技術で表現する華やかなタイプが、
対照的に使われている。
答えはどちらでもない。
二つを統合した、もっと先にあるだろう。
だから対決の結果、
相手のいいところを取り入れるようになるはずだ。
2024年09月09日
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