2024年09月10日

悪意を研究しよう

悪意を考えることは、悪役を考えることだけではなく、
人間について深く考えることである。


悪意には二つある。
純粋な悪意と、ルールを使う悪意だ。

純粋なものはノールールである。
無邪気な悪意と言ってよい。
むき出しだから、分りやすい。
でもむき出しだから、反省もしやすいのかもしれない。

厄介なのは、後者だ。
ルールを使って悪意を隠蔽するやり方だ。
狡猾な悪意と言ってもよいか。
いじめはこれを利用する。
ルールは悲劇を避けるためにあるのだが、
悪用していじめをするために使う。
ルールギリギリであればOKとして、
範囲内だから何も悪いことをしていない、
という風に悪用するわけだ。

ルールは最低限のマナー、という言い方がある。
これ以上は非人間的だからやめようぜ、
と決めた、ということだ。
だから、ルールを守ればOKなのではなく、
どういう運用をするか、が人としてのありかただ。

ルールに抵触しないからといって、
何をしても良いわけではない。
ルールとの付き合い方で、その人の高潔さがわかる、
といってもよい。

悪意は、ルールを悪用してくる。
なぜならば、
「自分は悪くない」と言いたいからだ。
「自分は安全地帯にいたまま、悪意を実行する」のが、
悪意の正体であると言ってもよい。

純粋な悪意ならば、正面切って突撃するかもしれない。
しかし狡猾な悪意は、矢面に立たず、
正面から逃げて、隠れて撃つ。

スナイパーが嫌われるわけだ。
狡猾な悪意とは、
隠れて見つからないところから撃つやつ、
と考えることもできる。


だから、「わるいやつ」を描くときは、
その狡猾さについても考えるべきである。

どのように見つかっていないと思っているのかとか、
どのような理由で言い逃れするのかとか、
ルールをどこまで(わざと)曲解していて、
逃れようとしているかとか、
なぜバレないと思っていたか、とか。
天地公平に誓って何も悪いことをしていない、と思い込んでいるとか。


人間は善か、悪か、という哲学的問いはとりあえずおいておこう。
善と悪がいると話がおもしろくなる、
というのはたしかで、
両極端な人たちの間でこそ、
ストーリーは面白くなるのであった。

だから、善の光を描くには、
悪の闇は深く興味深いほうがいいに決まっている。

だから、おもしろい悪を描くために、
悪意を研究しておくことは、
物語作家としては当然ともいえる立場なのよね。


にもかかわらず、
あんまり悪について、とか、
悪意について、とか、
シナリオ論で議論されることはあまりなかったかも知れないね。
悪はオリジナリティが出るところだからかも。


これまで人生で出会ってきた悪意は、
たくさんあったことだろう。
それを煮詰めて最強の悪にしてもよいし、
なんかイラっとする小悪に仕立て上げてもよい。
リアルな小悪はそれはそれでおもしろいし、
最強の悪党は最強の魅力が出るのではないか。

そのためだけに悪党と繋がる必要はないが、
人には善の面もあれば悪の面もある、
と考えれば、
その人の中のバランス感覚を考えるのに役に立つものだ。

悪100%の人はいなくて、
マフィアのボスでも孫娘を可愛がったりするわけで、
どんな人にもある時は悪で、ある時は善、
というものがあるわけだ。
そのリアルを観察するのも、悪くない。

もちろん、善100%の人もいないので、
その観察も怠ってはいけない。



コンプライアンスがかまびすしく言われて、
少しの瑕疵もゆるさぬ、みたいになっているが、
元来キリストは、罪人に石を投げる者に対して、
「罪のないものだけが石を投げよ」と、
全ての人には原罪がある、と説いた。
そんな混ざった感覚でいいと思うがね。

悪は罪か、というややこしい問題もあるが、
物語で扱うのは、
悪そのものではなく、
具体的な人の悪意、行為であることに注意せよ。
裁くのは作者ではなく、
あくまで別人であるところの主人公である。
正義感や法律ではなくて、
自分の都合で、結果的に裁くことになるだけだと思うんだよな。

原理的な悪と善の戦いではなくて、
悪意のある者が、
別の動機を持つ主人公が目的を果たした結果、
結果的に排除される、
ということだと思う。

だから、あくまで人間対人間の話になるわけだ。


もちろん殺しあって決着をつけてもいいが、
殺しあわないような結末を求める場合、
どのような着地点を用意するかが難しい。

その点、喧嘩両成敗、
というオールマイティを切っていた大岡裁きは思考停止だなあ、
と時々思うわけだ。


その結末すらも、
作者の哲学が出がちだ。
あくまで主人公の人生の結果、
ということに過ぎないことを考えることだ。
思想とは関係なく、
状況による結論に過ぎないだけだぞ。


悪意について考えよう。
それは、主人公が克服するべき障害になる。
敵の悪意、そして自分の中の悪意。
posted by おおおかとしひこ at 08:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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