前記事のつづき。
僕は配列道にはローマ字配列から入ったが、
今はカナ配列だ。
なぜ戻らないかというと、気持ちよさが違うからだ。
カナ配列はローマ字配列より気持ちいいぞ、
という原始的な感覚の話。
カナ配列をはじめようとするには、
勇気がいると思う。
ローマ字に使う26からすると、
倍の50をさばけるのか不安だし、
やったこともないのに「むずかしそう」という先入観があったし。
合理的に考えると、26対50の計算をしてしまうが、
実のところこの判断は間違っている。
真の合理的判断は、
ローマ字が1カナあたり1・7打必要というところだ。
(26×1・7=44・2だから足りねえじゃねえか、という計算ではない。
統計的な使用頻度に基づいている。
各文字要素は等頻度ではなく、使用頻度は偏っている)
ローマ字は使う要素は少ないが、
たくさん打たないといけない、
カナは使う要素は多いが、
打鍵数が少ない。
この、打鍵数が少ないのが、
カナ配列の気持ちよさなのだ。
カナ配列は難しいという先入観がある。
要素が多く、覚えるのが困難そう、
というのがひとつあり、
それらのたくさんのキーをうまく打てるだろうか、
という運指上の先入観がひとつある。
前者は、人類には可能、
ということは言っておく。
後者は、
運指が合理的な配列ならば、
qwertyローマ字よりもむしろ運指が楽になる、
ということを強く言いたい。
もちろん、ローマ字専用配列で、
運指が合理的なものもあり、
それだけでqwertyの不便さを凌駕することもある。
だが、それ以上に合理的な運指のカナ配列は、
打鍵数が少ないし、
きもちいいぜ、ということだ。
合理的な運指のカナ配列には何があるか。
薙刀式、新下駄、飛鳥、
月配列、シン蜂蜜小梅、かわせみ配列、
などを挙げておこうか。100の単位であるので、
各自調べたい。
これらがローマ字より勝るのは、
打鍵数の少なさだ。
同じことを書くのに、
こちらからしなければならないアクションが少ないんだよね。
それが気持ちいい。
逆にいうと、
少し漕いだだけでガンガン文章が進むわけなのだ。
ギア比を考えればわかるだろう。
つまり、
カナ配列はギア比がいい。
カナ配列をやったあとでローマ字に戻ると、
うざくてしょうがなくなる。
同じことを書くのに、
こんなに手を動かさないと書けないの?
めんどくさくない?ってことだ。
なんでこんなに無駄なことをしているんだ?
と、哲学的な疑問に入ってしまうことうけあいだ。
ただ、始めるだけの心理的ハードルが高かっただけなんだよね。
いざやってみたら、この気持ちよさで、
誰も戻ってきてないと思うよ。
同じことがカナ配列と漢直で言えそうな気がするのだが、
経験者じゃないのでここ以上はアドバイスが難しい。
漢直経験者はみんな漢直はいいぞ、というが、
僕は覚えることの多さにおびえている。
これはカナ配列対ローマ字と同じ構図かもねえ、
などと予感してはいる。
ただし、カナ配列ほどの運指的合理性が、
漢直には見えてこないので、そこのところが気になっている。
「漢字変換過程を伴わない」ことの気持ちよさは、
想像できるのだが。
今のところ言えるのは、
ローマ字配列→カナ配列
……手間の少なさ、運指合理性
カナ配列→漢直
……カナ漢字変換から解放されること
と、気持ちよさのベクトルが異なる可能性だな。
合理的なカナ配列をやった人や、
漢直がやれるようになった人は、
二度とローマ字に戻らない。
それくらいには気持ちよい。
というか、ローマ字が気持ち悪すぎる。
向こうから見た景色と、こちらから感じる景色はつねに違うものだが、
カナ配列者が「ローマ字は気持ち悪いんだよ」って言ったって、
ローマ字の人たちはカナ配列に来ない。
あくまで相対的な視点なことを考えると、
「カナ配列、めっちゃ気持ちいいぞ」っていうべきだよな。
数字で見てみよう。
薙刀式だと、
3000カナを書くのに3000アクションでよい。
3000カナを書くのに5100アクション必要なローマ字は、
やっぱりしんどい。
5100が3000になります。
気持ちよさそうでしょ。
2連接回数は2550から1500に減る。
この2連接がローマ字では気持ちいいとは限らないが、
薙刀式の1500連接は大体気持ちいい。
3000カナは大体このブログの1記事に相当する。
5100を3000にする気持ちよさがあるから、
僕はこのブログを続けてられると思うんだよな。
書くことが気持ちよく、
考えることが気持ちいいんだぜ?
指が快感になると、思考が快感になってくる。
ローマ字じゃ考えられなかったことだ。
このブログは、つまりは僕の打鍵快感と思考快感の記録だ。
2024年07月21日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック