サ変とかナ変とかあったなあ、
と突然思い出したので、整理してみる。
活用語尾は薙刀式の設計上重要ポイントなので。
古文の場合。
下一段活用 「蹴る」のみ
カ変 「来」
およびこの複合動詞
(まうで来、出で来、など)
サ変 「す」「おはす」
およびこの複合動詞
(ものす、具す、御覧ず、など)
ナ変 「死ぬ」「往ぬ(去ぬ)」のみ
ラ変 「あり」「をり」「はべり」「いまそかり」のみ
複合動詞を除けば、
かなり例外的になってるんだね。
蹴る 来 す おはす 死ぬ 往ぬ
あり をり はべり いまそかり
だけということだ。
蹴るが意外だが、助動詞「けり」との関係かな。
それ以外は、
日本語の基本動詞的なことだと思えるね。
で、現代国語だと、
カ変 来る
サ変 する
のたった2語になるらしい。
しかし薙刀式で大変重要視している、
ある する くる いる
あたりがこれらの基本動詞になっているのが興味深い。
現代語で「死ぬ」は変格活用ではないが、
ウ段で終わる動詞の中で、
唯一「ぬ」で終わる動詞なので、
やはり別格感があるね。
(薙刀式では、動詞終止形のウ段は、
「ぬ」を除きすべて右手にあるため、
右手終わりの感覚を強く持つ)
変格活用動詞は、
よく使うものだから例外的なオリジナルになり、
目立つように変化していったのだと考えられる。
便利箱みたいなものだったのだ。
というわけで、
それらを右手アルペジオ(「死ぬ」は例外)の、
中心に置いてる薙刀式は、
やっぱいいぞ、ということで。
日本語の本質とはなにか?
に迫りたいと僕はずっと思ってきた。
「打鍵の本質が日本語の本質であるべきで、
指を動かす本質的な動きは、
日本語の本質的なことばと対応するべき」
などと無茶なことを考えてきた。
「日本語の本質」といってもいろんな切り口があるし、
指遣いの本質といってもいろんな切り口があろう。
にしても、
なかなか良いところを突いたんじゃない?
無意識でやったことなんだけどさ。
薙刀式は、
・変格活用動詞を日本語の本質的な重要動詞と考える
・現代語のそれらを、打鍵の本質的に重要な、
右手アルペジオに埋め込む
・それら以外の動詞の終止形も右手終わりにすることで、
すべての同時の流れは右手止めという感覚になる
配列である。
理屈じゃなかなか分析できない打鍵の楽しさみたいなものを、
今頃ようやく言語化していってる感じだな。
2024年07月22日
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