何のために脚本を書くのか。
各自色んな理由があってよいと思う。
でも、復讐のため、みたいなものはやめたほうがいいと思う。
何への復讐なのだろうか。
自分を見下した世間を、すごいと賞賛させるためだろうか。
誰かに振られて、そいつを見返してやる、
というような復讐だろうか。
まあそういうものが動機になることは、
往々にしてあるとは思う。
だけど、僕はこの動機はやめとけ、と言いたいな。
なぜならば、
結果は「ざまあみろ」しかないからだ。
仮にとても良いものが書けたとしよう。
それで世間は賞賛したとしよう。
あなたをバカにしていた人は、
手のひらを返して、すごいねと言ったとしよう。
それで得られるものが、
「ざまあみろ」でしかないんだよね。
そこに、
「いいものをつくろう」が、成分としてどれだけ含まれているのかね?
半分あるとしようか。
半分はざまあみろの為にやるとしよう。
そしたらさ、50%の力しか、いいものをつくろうと思っていないことになるじゃない?
100%いいものをつくろうとしている人に、
絶対負けると思うんだよね。
そんなんで、世間が賞賛する、
いいものが書けるんだろうか?
と、僕は原理的に思うわけさ。
そういう人は、多分「いいもの」を書いたことが無い人なんじゃないかとすら思う。
ほんとうに「いいもの」を書いたときは、
無心なんだよね。
復讐心とか見返してやるなんて、
ちいせえ動機だとすら思う。
もっと純粋に、いいものをつくればいいじゃない。
いいものを作った無心のときは、
いいものを作ろうとすら思ってないことがとても多い。
多分、いいものをつくることができないから、
復讐に動機の一部を託しているんじゃないか。
復讐はいいから純粋にいいものをつくってみろよ、
と言われて、怖くなるんじゃないか。
なぜなら、
復讐を果たした受賞作品の次の、
次回作をあなたは書かなければならないからだ。
次回作、そのまた次回作、そのまた次回作……
あなたが脚本家になるならば、
生涯書く本数は何本になるだろう?
10本?50本?100本?
そのたんびに復讐とか考えてる場合じゃないでしょ。
もっといいものをつくらなきゃね。
世間はおかしいのだ、本当にいいものをつくって、
本当におもしろいと言わせてやる、
というのはまだ健全かな。
「自分」が入っていないからね。
結局、方向性の違う承認欲求が、
復讐という動機に入っている気がする。
バカにしやがって、というのは人を強く動かす動機ではあるが、
それで筋トレとかつらい単純労働とか、
仮面をかぶって善人のふりをすることは可能でも、
創作をすることは難しいと思うんだよね。
なぜなら、創作というのは人のエネルギーを沢山使うものであり、
復讐のエネルギーはブレーキをかけるから。
復讐を動機にしている時点で、
あなたの創るものはなんらかおもしろくないんだよ。
その不足分を、もっといいものに使いなさい。
観客が驚く顔とか、
感心する顔とか、
感動する顔とか、
爆笑する顔とか、
悲しむ顔とか、
苦しむ顔とか、
不条理に怒る顔とか、
涙を流して人生が影響される顔とか、
そういうものを目指したほうが、
僕は健全でおもしろいものがつくれると思うな。
そして、
多分、あなたをバカにした人は、
世界的名作を書いたとしても、
あなたを「バカにしてすまなかった」と謝らないだろう。
いじめをした人はそのことを覚えていない。
人の足を踏んだ人はそのことを覚えていない。
「大先生、バカにしてすみませんでした!」
と土下座しに来ることは、一生ないよ。
だってあなたがそうしたことが人生であったかい?
リアルにどこかで見たことある?
ないなら、ないと思うんだよな。
いいものを賞賛しよう。
つまらないものをブーイングしよう。
観客の反応は、それだけだと思うよ。
メタな文脈で何かを語る人は、
そもそも作品に夢中になっていない人だ。
そんなものを求めているということは、
作品がその分つまらなくなっているということさ。
そんなことを考えさせないくらいに、
夢中になれる作品を書くことだな。
あなたの書くものが、
誰かが夢中になれるのか、なれないのか。
それだけが評価基準だと思うとよい。
だから論理的に、
バカにされた経験は、復讐の機会を失う。
一生覆らない。あきらめろ。
それを忘れるくらいに、
夢中をつくれ。
何かにとらわれている作者のつくるものは、
たいてい面白くない。
その分、発想が自由じゃないってことだから。
2024年09月17日
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