2024年09月18日

なんだったら映画になるか

映画脚本というものは難しい。
映画になるものか、ならないものか、
見極めることが難しいからだと思っている。

じゃあ、なんだったら映画になるのか?
その基準は、実はあなたにしかないと思う。


小泉論法(トートロジー)になりそうだけど、
「あなたが映画になると思うものを、
映画にする」しかないと思うんだよね。

もう少し縮めると、
「あなたが映画だと思うものを書く」しかないと思う。


映画ってなんだろう?
冒険だろうか?
緊張だろうか?
達成だろうか?
ラブストーリーだろうか?
アクションだろうか?
ハッピーエンドのことか?
導入のわくわくだろうか?
マニアックな見方だろうか?
低予算B級にこそほんとうの映画があるか?
アイデアだろうか?
ムードだろうか?
人生だろうか?
哲学だろうか?
ふとした真実の瞬間だろうか?

なんだっていいと思う。
ひとつじゃなくていいと思う。
その複合体が映画なのだ、
と考えていいと思う。

その「あなたが映画だと思うもの」を言語化して、
リストにして貼っておくとよい。
つまり、自分へのオリエンである。
「以下のような条件を満たす、
映画をつくりなさい」ということだ。

あなたの書いたものが、
あなたの思い描いた映画に満たないならば、
あなたのOKは出ないよね。

基準を厳しく取る?
甘く取る?
どっちでもよい。
最初は甘く取ってもよいが、
そのうち厳しく取ろうぜ。
あなたが「これこそ映画だ!」って思うものを、
なぜ書かないのか?

もちろん、みんな違うものを「これが映画だ!」って思っている。

僕がプロになって思ったことは、
各自が「これこそが映画だ!」って思っているものに、
相当ばらつきがあるということだ。

同じことを思っている人を集めてつくったほうがいいかな?
違うことを思っている人を集めてつくったほうがいいかな?
どっちにも長所と短所があろう。


いずれにせよ、
「俺はこれこそが映画に必要な条件だと思う」
を、リストアップしておくと、
他人とも話しやすいし、
違いを浮き彫りにしやすいよ。

そして、
自分の書くものが、これこそ映画になっているか、
チェックしてみるといいぜ。


それは他の芸術でも言えるだろうね。
絵とは、小説とは、音楽とは、
ダンスとは、芝居とは、ビジュアルとは、
ゲームとは、イベントとは、興行とは。

自己定義こそが、自己をチェックするわけだ。

自分の作風とか考えている場合じゃない。
あなたがこれこそ映画だと思うものを、
つくればいいだけさ。


苦手なジャンルかもしれないよ。
恋愛描写が苦手なくせに、
うっとりするようなラブロマンスの瞬間こそ、
映画を感じるのなら、
それに挑戦してみればいいのさ。

目標に足りなくてがっかりするだろう。
でも近づいたことはたしかなので、
その水準に至るまで、
自分を高めていけばいいだけのこと。
勉強したり、妄想したりして、
自分を納得させられるだけの実力を、
つけていけばいいだけのことだ。



そして、
他人の「これこそ映画!」というのに、
どういうものがあるのかを観察しよう。

つまり、好みだ。
好みをいろいろ観察しよう。
誰もかもが違うことが分かるだろう。
これを外したら映画じゃないぜ、
というポイントがいくつかあるだろう。

じゃあ、それをいくつか取り込んでみたら?
自分のこれぞ、と他人のこれぞ、が、
両立するものをつくってみたら?

そうしたら、
自分だけの視点じゃなくて、
他人から見た視点でおもしろさが出てくるかもしれないよね。


あなたが、「これが映画である」を決めるのだ。

それを書きなさい。

つまらなくて死にたくなったら死ね。
そんな才能のないやつはいらない。
もっとおもしろいものに書き換えられるなら、
生きて書き直せ。

出来上がったものは、あなた自身が「これぞ映画」と言えるものになるだろう。

あとは、もっといい映画をたくさん見て、
「こういうものが映画だって言ってもいいんだ!」
に沢山出会うことだね。
見識を広めるというやつだ。
posted by おおおかとしひこ at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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