映画脚本というものは難しい。
映画になるものか、ならないものか、
見極めることが難しいからだと思っている。
じゃあ、なんだったら映画になるのか?
その基準は、実はあなたにしかないと思う。
小泉論法(トートロジー)になりそうだけど、
「あなたが映画になると思うものを、
映画にする」しかないと思うんだよね。
もう少し縮めると、
「あなたが映画だと思うものを書く」しかないと思う。
映画ってなんだろう?
冒険だろうか?
緊張だろうか?
達成だろうか?
ラブストーリーだろうか?
アクションだろうか?
ハッピーエンドのことか?
導入のわくわくだろうか?
マニアックな見方だろうか?
低予算B級にこそほんとうの映画があるか?
アイデアだろうか?
ムードだろうか?
人生だろうか?
哲学だろうか?
ふとした真実の瞬間だろうか?
なんだっていいと思う。
ひとつじゃなくていいと思う。
その複合体が映画なのだ、
と考えていいと思う。
その「あなたが映画だと思うもの」を言語化して、
リストにして貼っておくとよい。
つまり、自分へのオリエンである。
「以下のような条件を満たす、
映画をつくりなさい」ということだ。
あなたの書いたものが、
あなたの思い描いた映画に満たないならば、
あなたのOKは出ないよね。
基準を厳しく取る?
甘く取る?
どっちでもよい。
最初は甘く取ってもよいが、
そのうち厳しく取ろうぜ。
あなたが「これこそ映画だ!」って思うものを、
なぜ書かないのか?
もちろん、みんな違うものを「これが映画だ!」って思っている。
僕がプロになって思ったことは、
各自が「これこそが映画だ!」って思っているものに、
相当ばらつきがあるということだ。
同じことを思っている人を集めてつくったほうがいいかな?
違うことを思っている人を集めてつくったほうがいいかな?
どっちにも長所と短所があろう。
いずれにせよ、
「俺はこれこそが映画に必要な条件だと思う」
を、リストアップしておくと、
他人とも話しやすいし、
違いを浮き彫りにしやすいよ。
そして、
自分の書くものが、これこそ映画になっているか、
チェックしてみるといいぜ。
それは他の芸術でも言えるだろうね。
絵とは、小説とは、音楽とは、
ダンスとは、芝居とは、ビジュアルとは、
ゲームとは、イベントとは、興行とは。
自己定義こそが、自己をチェックするわけだ。
自分の作風とか考えている場合じゃない。
あなたがこれこそ映画だと思うものを、
つくればいいだけさ。
苦手なジャンルかもしれないよ。
恋愛描写が苦手なくせに、
うっとりするようなラブロマンスの瞬間こそ、
映画を感じるのなら、
それに挑戦してみればいいのさ。
目標に足りなくてがっかりするだろう。
でも近づいたことはたしかなので、
その水準に至るまで、
自分を高めていけばいいだけのこと。
勉強したり、妄想したりして、
自分を納得させられるだけの実力を、
つけていけばいいだけのことだ。
そして、
他人の「これこそ映画!」というのに、
どういうものがあるのかを観察しよう。
つまり、好みだ。
好みをいろいろ観察しよう。
誰もかもが違うことが分かるだろう。
これを外したら映画じゃないぜ、
というポイントがいくつかあるだろう。
じゃあ、それをいくつか取り込んでみたら?
自分のこれぞ、と他人のこれぞ、が、
両立するものをつくってみたら?
そうしたら、
自分だけの視点じゃなくて、
他人から見た視点でおもしろさが出てくるかもしれないよね。
あなたが、「これが映画である」を決めるのだ。
それを書きなさい。
つまらなくて死にたくなったら死ね。
そんな才能のないやつはいらない。
もっとおもしろいものに書き換えられるなら、
生きて書き直せ。
出来上がったものは、あなた自身が「これぞ映画」と言えるものになるだろう。
あとは、もっといい映画をたくさん見て、
「こういうものが映画だって言ってもいいんだ!」
に沢山出会うことだね。
見識を広めるというやつだ。
2024年09月18日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック