2024年09月22日

別の新作を考えると、見えてくるものがある

そろそろ完成、という頃に、
大抵別の新作を思いつく。
そんなことない?


それは多分、完成に近づいたから、
客観的になりつつある証拠なのだろう。

全く進まないときに、
全く違った新作のアイデアが出ることもある。
それは単なる現実逃避だろうね。
そしてそれも進まずに、
どれも進まない、という地獄に落ちることもある。
それは何とかして抜けるしかない。

それとは違って、
終わりかけのときに、
別の新作のアイデアが出ることは、
結構よくあることなんだよな。

多分それは、無意識がもう完成だと思っているのだが、
書くこと自体は面白いから、
その遊びを続けようと思っている、
ということだと僕は解釈している。


こういう精神状態の時は、
俯瞰に向いている。

一体書き終えつつあるその作品が、
世間でどういう立ち位置にはまるのか、とか、
どういう観客が喜ぶのか、とか、
どういうセールスの仕方をするといいのか、とか、
そもそも表のテーマはいいが、裏のテーマとは、とか、
似た構造の話は何があるのか、とか、
世間で何に似ていると言われそうか、とか、
どういう系譜の作品と思われるか、とか、
などなどだ。

つまり、作品の世界の中からの視点ではなくて、
「それを扱うディーラーの視点」とか、
「それを他と並べて比較する観客の視点」に、
なることができるわけだ。
それはもうその作品世界から魂が離れつつあり、
完成に近づいている、ということだろう。

俯瞰するには、遠ざからないといけない。
しかし渦中にいるときは、遠ざかることは難しい。
だから、
渦中が過ぎてから、完成しかかってから、
ようやく外から眺められるわけだ。


この視点に来たら、
なるべくいろんな人の視点から眺めてみると良い。
こういう好みの人は、これをどう思うか?とか、
嫌いな人がいるとしたら、どういう感じで嫌うだろう?とかだ。
ターゲットとしていない人から見た視点も大事だ。
世の中にこのように存在してよい、
と彼らに思わせるやり方はあるだろうか?と考えてもよい。

大人向けの作品ならば、子供にはどう見えているか?
とか、
中高生向けならば、大人からどう見えるのか?とか。
男向けなのに、女性はこれを見てどう思うか?とか。
そんなことを考えることが出来るのは、
視点が作中から遠ざかっている時だけだろう。


ということで、
次の作品のアイデアが出てくるときは、
リライトも終わりに差し掛かっているときだと思う。

ようやく、作者ではなく、
他者の視点になれる、
というわけ。
「話す」という行為は、「離す」でもある。
自分から離せる、ということは、
話し終わった、ということかもしれない。

(もちろん、ここからテクニカルな書き直しをすることもあるだろう。
熱が冷めている状態でテクニカルに手術すると、
下手な判断がなくていいかもね)
posted by おおおかとしひこ at 02:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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