そろそろ完成、という頃に、
大抵別の新作を思いつく。
そんなことない?
それは多分、完成に近づいたから、
客観的になりつつある証拠なのだろう。
全く進まないときに、
全く違った新作のアイデアが出ることもある。
それは単なる現実逃避だろうね。
そしてそれも進まずに、
どれも進まない、という地獄に落ちることもある。
それは何とかして抜けるしかない。
それとは違って、
終わりかけのときに、
別の新作のアイデアが出ることは、
結構よくあることなんだよな。
多分それは、無意識がもう完成だと思っているのだが、
書くこと自体は面白いから、
その遊びを続けようと思っている、
ということだと僕は解釈している。
こういう精神状態の時は、
俯瞰に向いている。
一体書き終えつつあるその作品が、
世間でどういう立ち位置にはまるのか、とか、
どういう観客が喜ぶのか、とか、
どういうセールスの仕方をするといいのか、とか、
そもそも表のテーマはいいが、裏のテーマとは、とか、
似た構造の話は何があるのか、とか、
世間で何に似ていると言われそうか、とか、
どういう系譜の作品と思われるか、とか、
などなどだ。
つまり、作品の世界の中からの視点ではなくて、
「それを扱うディーラーの視点」とか、
「それを他と並べて比較する観客の視点」に、
なることができるわけだ。
それはもうその作品世界から魂が離れつつあり、
完成に近づいている、ということだろう。
俯瞰するには、遠ざからないといけない。
しかし渦中にいるときは、遠ざかることは難しい。
だから、
渦中が過ぎてから、完成しかかってから、
ようやく外から眺められるわけだ。
この視点に来たら、
なるべくいろんな人の視点から眺めてみると良い。
こういう好みの人は、これをどう思うか?とか、
嫌いな人がいるとしたら、どういう感じで嫌うだろう?とかだ。
ターゲットとしていない人から見た視点も大事だ。
世の中にこのように存在してよい、
と彼らに思わせるやり方はあるだろうか?と考えてもよい。
大人向けの作品ならば、子供にはどう見えているか?
とか、
中高生向けならば、大人からどう見えるのか?とか。
男向けなのに、女性はこれを見てどう思うか?とか。
そんなことを考えることが出来るのは、
視点が作中から遠ざかっている時だけだろう。
ということで、
次の作品のアイデアが出てくるときは、
リライトも終わりに差し掛かっているときだと思う。
ようやく、作者ではなく、
他者の視点になれる、
というわけ。
「話す」という行為は、「離す」でもある。
自分から離せる、ということは、
話し終わった、ということかもしれない。
(もちろん、ここからテクニカルな書き直しをすることもあるだろう。
熱が冷めている状態でテクニカルに手術すると、
下手な判断がなくていいかもね)
2024年09月22日
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