ポリコレでハリウッドはめちゃくちゃになってしまった気がする。
その影響は世界全体に及び、
ポリコレ配慮していないものは文化として発表してはいけない、
偏ったものとして扱われがちだ。
僕は、これは文化を壊してしまったと感じている。
文化とは何か、を考えれば、
ポリコレはその真逆にいると思うからだ。
文化とは何か、僕は希少性だと思うんだよね。
文化とは、もともと希少なものを扱う。
現実はつまらなく、ふつうで、ごちゃごちゃしているだけのカオスだから、
それをめったにない、貴重な、斉一にそろった、
特別なものに仕立てるのが文化だと思う。
現実はエントロピーの法則にしたがって、
カオスになってゆく。
それの逆方向に、整えていくのが文化であると。
ふつうのカオスを描いても現実と同じだから、
特別に「違う整い」をつくるのが文化であると、
僕は考えている。
さて、ポリコレはその真逆である。
なぜなら、
「映画は白人ばかりだから、
現実の黒人やヒスパニックを入れて、
人種のパーセンテージを整えよ」と、
まずは人種を現実に近づけよ、
といったわけ。
人種を現実に近づけるのは、
人種差別や偏見を植え付けないものになる、
と思われたが、
逆に「つまらなくなった」のだ。
なぜか。
「白人ばかりの特別な状態」こそが、
特別な文化だったからだ。
極論すると、
アルビノの黒人を5人集めれば、
特別な話になる、
という「めずらしさ」こそが文化だからだ。
文化とは高尚なものではなくて、
見世物なのだよ。
もっと原始的で、客寄せパンダのような、
縁日の暗闇で見せるものなんだ。
それが権力をもったかのようにふるまい始めたから、
それをたたくためにポリコレ棒が発明されたのかもしれない。
せっかく、
希少で特別なものだったものが、
現実のカオスのように平均化されてしまったら、
特別でおもしろい文化は平均化されてしまう、
というわけだね。
黒人と白人の比率を現実に近づけただけで、
そうなるか、というとまあそうじゃないかもしれない。
男と女に配慮して、大人と子供に配慮して、
老人にも配慮して、
LGBTにも配慮して、宗教や国にも配慮して……
と、ポリコレは無限に配慮が必要になり、
文化は平均を取らざるを得ない。
モテナイ男たちが革ジャンを着てヘビメタをする、
とかはできないわけ。
つまり、尖れないということだ。
逆に、尖ることが文化だといえる。
ポリコレは文化を丸くして、
平均化してしまった。
つまり、どのハリウッド映画も、
特別なものではなく、平均化してしまう。
誰か優秀な人の、文化破壊戦略だったのだろうか?
そうとすら思うわ。
たとえば、恋というのは日常のカオスに表れた、
特別な瞬間だ。
その特別性がなくなり、
平均化されるとしたら?
特別な人一人を優遇するのは変だ、
全員を等しく好きになるべきだ、
となったとしたら?
異性だけを好きになるのも優遇だ、
両方の性を好きになるべきだ、全員、となったら?
恋というものは成立しなくなってしまう。
ポリコレの行く末は、
結果的全体主義になるに違いない。
平均化した先の平均化は、ガウスノイズに収束するだろう。
そのカオスを逆方向に走ったものが文化であるというのに、
文化というものの本質をないがしろにして、
ただ「配慮」しつづけるハリウッドは、
大丈夫なんだろうか?
ポリコレがすすむと、
夢がなくなる。
現実的になるからだ。
文化とは夢のことであり、特別なことの別名だと僕は思う。
現実的になればなるほど、
夢から遠ざかるんだよ。
だから最近のハリウッドから夢がなくなっていて、
じゃあおもしろいのか?になりつつあると思う。
日本でも色んな配慮が増えた。
抗議が怖いのだろう。
「文化とは特別に偏るところに存在する」
ということを真にわかっていたら、
配慮は抹殺するだろう。
そんなことを、パリ五輪の開会式を見ながら思った。
偏りこそが文化である。
平均化したら平均化してしまう。
せっかく色が出て偏っていたものを、
まぜこぜにしてグレーにしてしまうのがポリコレだ。
2024年07月31日
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