2024年07月31日

なぜポリコレは文化を壊したのか

ポリコレでハリウッドはめちゃくちゃになってしまった気がする。
その影響は世界全体に及び、
ポリコレ配慮していないものは文化として発表してはいけない、
偏ったものとして扱われがちだ。
僕は、これは文化を壊してしまったと感じている。

文化とは何か、を考えれば、
ポリコレはその真逆にいると思うからだ。

文化とは何か、僕は希少性だと思うんだよね。


文化とは、もともと希少なものを扱う。
現実はつまらなく、ふつうで、ごちゃごちゃしているだけのカオスだから、
それをめったにない、貴重な、斉一にそろった、
特別なものに仕立てるのが文化だと思う。

現実はエントロピーの法則にしたがって、
カオスになってゆく。
それの逆方向に、整えていくのが文化であると。

ふつうのカオスを描いても現実と同じだから、
特別に「違う整い」をつくるのが文化であると、
僕は考えている。


さて、ポリコレはその真逆である。

なぜなら、
「映画は白人ばかりだから、
現実の黒人やヒスパニックを入れて、
人種のパーセンテージを整えよ」と、
まずは人種を現実に近づけよ、
といったわけ。

人種を現実に近づけるのは、
人種差別や偏見を植え付けないものになる、
と思われたが、
逆に「つまらなくなった」のだ。

なぜか。
「白人ばかりの特別な状態」こそが、
特別な文化だったからだ。
極論すると、
アルビノの黒人を5人集めれば、
特別な話になる、
という「めずらしさ」こそが文化だからだ。

文化とは高尚なものではなくて、
見世物なのだよ。
もっと原始的で、客寄せパンダのような、
縁日の暗闇で見せるものなんだ。

それが権力をもったかのようにふるまい始めたから、
それをたたくためにポリコレ棒が発明されたのかもしれない。

せっかく、
希少で特別なものだったものが、
現実のカオスのように平均化されてしまったら、
特別でおもしろい文化は平均化されてしまう、
というわけだね。

黒人と白人の比率を現実に近づけただけで、
そうなるか、というとまあそうじゃないかもしれない。
男と女に配慮して、大人と子供に配慮して、
老人にも配慮して、
LGBTにも配慮して、宗教や国にも配慮して……
と、ポリコレは無限に配慮が必要になり、
文化は平均を取らざるを得ない。

モテナイ男たちが革ジャンを着てヘビメタをする、
とかはできないわけ。
つまり、尖れないということだ。


逆に、尖ることが文化だといえる。

ポリコレは文化を丸くして、
平均化してしまった。
つまり、どのハリウッド映画も、
特別なものではなく、平均化してしまう。

誰か優秀な人の、文化破壊戦略だったのだろうか?
そうとすら思うわ。



たとえば、恋というのは日常のカオスに表れた、
特別な瞬間だ。
その特別性がなくなり、
平均化されるとしたら?

特別な人一人を優遇するのは変だ、
全員を等しく好きになるべきだ、
となったとしたら?

異性だけを好きになるのも優遇だ、
両方の性を好きになるべきだ、全員、となったら?

恋というものは成立しなくなってしまう。


ポリコレの行く末は、
結果的全体主義になるに違いない。
平均化した先の平均化は、ガウスノイズに収束するだろう。

そのカオスを逆方向に走ったものが文化であるというのに、
文化というものの本質をないがしろにして、
ただ「配慮」しつづけるハリウッドは、
大丈夫なんだろうか?


ポリコレがすすむと、
夢がなくなる。
現実的になるからだ。

文化とは夢のことであり、特別なことの別名だと僕は思う。


現実的になればなるほど、
夢から遠ざかるんだよ。

だから最近のハリウッドから夢がなくなっていて、
じゃあおもしろいのか?になりつつあると思う。


日本でも色んな配慮が増えた。
抗議が怖いのだろう。
「文化とは特別に偏るところに存在する」
ということを真にわかっていたら、
配慮は抹殺するだろう。

そんなことを、パリ五輪の開会式を見ながら思った。
偏りこそが文化である。
平均化したら平均化してしまう。
せっかく色が出て偏っていたものを、
まぜこぜにしてグレーにしてしまうのがポリコレだ。
posted by おおおかとしひこ at 07:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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