知り合いに釣りが好きなやつがいて、
その人と話していたときのこと。
僕は幼少のころ釣り好きの親父にいろいろ連れてかれたのだが、
あまり好きになれなかった。
で、その人に「釣りの何がいいの?」と尋ねたら、
「いのちのやり取りだから」という返事が返ってきて、へえと思った。
某釣具メーカーのCMを作った時、
彼らは釣りを頭脳ゲームにたとえていた。
なるほど、それを効果的に、効率よくするアイテムが釣具かー、
などと納得していた。
釣りとは知的ゲームである、ということだ。
まあそれはそれとして理解していたのだが、
その人の、
「釣りは、いのちのやり取りをしているからおもしろい」
というのは、
もっと原始的な納得があったんだよね。
ちなみにその人は磯釣りがメインで、
仮に引きが強くて海に落とされたら、
岩にぶち当たって死ぬかもしれない、
という危険の中釣りをするのが最高らしい。
そして魚側は釣られたら死ぬことが確定している。
なるほど、いのちのやり取りいう、
原始的なゲームなんだな、
とわかる。
これに比べたら格闘技なんて、
ルールに縛られているスポーツに過ぎないなあ、
などと思った。
人間同士のいのちのやり取りは、
現代の法では禁止されている。
でも昔はそうではなかった。
その原始の感覚が、
びりびりするほどおもしろい、
というのはよくわかる。
昔天狗の取材のために、
いくつかの山を登ったけど、
それだけでも自然の中でうっかりしたら死ぬなあ、
と思って、
びりびりしたことをよく覚えている。
この中に大自然という妖怪がいることも、
普通にリアルな気がした。
山というのは意外と気配に満ちているんだなあ、
と思った記憶もある。
山登りとはつまり、生きることや死ぬことを感じにいくことなんだな、
という理解をしていたが、
それよりも釣りは直接対決感が強いのだろう。
その人はやっていないが、銃で打つのはどうなのか、
今度あってみたら聞いてみるか。
さて。
現代では、いのちのやり取りが禁止されている。
だから、
それが娯楽になる。
映画というのはいのちのやり取りを娯楽化したものだ、
ともいえるわけだ。
なぜ映画の中では決闘するのか、
なぜ映画の中ではハラハラするアクションがあるのか、
なぜ映画の中では社会生命を賭けた戦いがあるのか、
などの答えは、
すべて「いのちのやり取りの疑似体験だから」
と答えられるのではないだろうか。
あなた自身が人間といのちのやり取りをしたことがなくても、
想像するだけでしびれることだろう。
殺した相手に対して敬意を持つことも理解できるだろう。
そんな単純な、原始的なことが、
現代の安全や法秩序の中では失われていることもわかるだろう。
というわけで、
あなたの物語の中に、
いのちのやり取りはあるだろうか?
そのしびれを取り入れてみると、
しびれるかもしれない。
2024年10月09日
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