2024年10月09日

いのちのやり取り

知り合いに釣りが好きなやつがいて、
その人と話していたときのこと。

僕は幼少のころ釣り好きの親父にいろいろ連れてかれたのだが、
あまり好きになれなかった。
で、その人に「釣りの何がいいの?」と尋ねたら、
「いのちのやり取りだから」という返事が返ってきて、へえと思った。


某釣具メーカーのCMを作った時、
彼らは釣りを頭脳ゲームにたとえていた。
なるほど、それを効果的に、効率よくするアイテムが釣具かー、
などと納得していた。
釣りとは知的ゲームである、ということだ。

まあそれはそれとして理解していたのだが、
その人の、
「釣りは、いのちのやり取りをしているからおもしろい」
というのは、
もっと原始的な納得があったんだよね。


ちなみにその人は磯釣りがメインで、
仮に引きが強くて海に落とされたら、
岩にぶち当たって死ぬかもしれない、
という危険の中釣りをするのが最高らしい。

そして魚側は釣られたら死ぬことが確定している。
なるほど、いのちのやり取りいう、
原始的なゲームなんだな、
とわかる。
これに比べたら格闘技なんて、
ルールに縛られているスポーツに過ぎないなあ、
などと思った。

人間同士のいのちのやり取りは、
現代の法では禁止されている。
でも昔はそうではなかった。
その原始の感覚が、
びりびりするほどおもしろい、
というのはよくわかる。

昔天狗の取材のために、
いくつかの山を登ったけど、
それだけでも自然の中でうっかりしたら死ぬなあ、
と思って、
びりびりしたことをよく覚えている。
この中に大自然という妖怪がいることも、
普通にリアルな気がした。
山というのは意外と気配に満ちているんだなあ、
と思った記憶もある。

山登りとはつまり、生きることや死ぬことを感じにいくことなんだな、
という理解をしていたが、
それよりも釣りは直接対決感が強いのだろう。
その人はやっていないが、銃で打つのはどうなのか、
今度あってみたら聞いてみるか。


さて。
現代では、いのちのやり取りが禁止されている。
だから、
それが娯楽になる。

映画というのはいのちのやり取りを娯楽化したものだ、
ともいえるわけだ。

なぜ映画の中では決闘するのか、
なぜ映画の中ではハラハラするアクションがあるのか、
なぜ映画の中では社会生命を賭けた戦いがあるのか、
などの答えは、
すべて「いのちのやり取りの疑似体験だから」
と答えられるのではないだろうか。


あなた自身が人間といのちのやり取りをしたことがなくても、
想像するだけでしびれることだろう。
殺した相手に対して敬意を持つことも理解できるだろう。

そんな単純な、原始的なことが、
現代の安全や法秩序の中では失われていることもわかるだろう。


というわけで、
あなたの物語の中に、
いのちのやり取りはあるだろうか?

そのしびれを取り入れてみると、
しびれるかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 07:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック