脚本を文学や何かのように思っているとしたら、
結構間違いだと僕は思っている。
脚本は、文学的パズルであり、
小説よりもジグソーパズルに近いジャンルではないか、
と考えている。
まず文章力はそこまで問われない。
セリフの力は必要だけど、
ト書きの実力はそこまでいらない。
正確に、客観的に、やることさえわかれば、
文学的響きは必要ない、
むしろ邪魔だ。
以前に君塚良一の「目の覚めるような月」
というト書きの誤り(そんな月は撮影できない)を指摘したが、
ト書きは物理で用意するものさえあれば良い。
一方、
セリフは分かりやすさと文学的であることの、
両方が必要だけど。
小説は地の文こそが華だと僕は思う。
三島由紀夫などを読めばわかる。
地の文の世界の切り取り方、
世界の認識ともいうべきものが小説じゃないか、
とすら思う。
人間の行動や結果などどうでもよくて、
「世界をこう思う」ことが小説である、
などというと言いすぎだろうか。
だからこそ、小説は地の文をいかに文学的に書くか、
ということに苦心しているのではないか。
一方、脚本は、「世界をこう思う」のは、
文章内に明示的に必要ない。
世界を撮影した時点で、
そのような世界があるわけだからね。
だから、物理的に何を用意するかを整えれば、
それが世界になるわけだ。
「このように思」わなくても、
撮影すれば世界になる。
世界が残酷だというならば、そういうことが起こればよい。
世界が生きるに値すると思えば、そのような物語を書いて結末をつくればよい。
そんな風に、
起こることと結末のペアで、
脚本は「世界はこのようである」を表現する、
間接話法の文学だ。
だから、
何をどの順番で用意するか、
が重要になってくる。
順番が変わるだけで、
間接話法は影響を受けるからだ。
昔数学の先生が、
「殴ってさする」という技法を教えてくれた。
1引いて因数分解できるならば、
1引いて因数分解して、あとで1を足しておけば、
数学的に同値である、のような手法である。
数学だから「殴ってさする」ができるけどさ、
現実では無理だよな、などと話していた。
殴ってさすればプラマイ0か?という話。
なんで殴るんだよ、のほうがでかいよね。
また、これは、「さすって殴る」に交換できない。
数学的には出来るけどさ、
先にさすっておいて、次に殴ったら、
殴ったほうしか記憶に残らないよね。
その理不尽のほうが意味を持ってしまう。
秘密をばらすタイミングが、
ある事実Xがあったあとと前では、
随分その意図が変わることになる。
たとえばXが誰かの死ならば、
だいぶ意図を感じるだろうね。
恋してからセックスするのと、
セックスしてから恋するのはだいぶ違う。
こんな風に、
ちょっと順番を変えるだけで、
まったく違う意味になってしまうわけ。
クレショフのモンタージュ実験は、
あるもの(食べ物、葬式、赤ちゃん)を先に見せておいて、
そのあと無表情を見せると、
先行する文脈に対して、
いい芝居をしているように見える、
という、
順番が観客の解釈に影響を与える、
という実験でもあった。
(編集順が逆ならば成立しない。
無表情から文脈につないだとしても、
その無表情は冷酷とか感情を持っていない、
などの意味になるだろう)
映像は順番を入れ替えるだけで意味が変わってしまう。
だから、脚本家は順番に気を使い、
「順番を入れ替えるとどうなるだろう」
「このエピソードをこっちに移動するとどうなるだろう」
「これとこれはどっちが先に起こっているのだろう」
「ここを省略して直結してしまうとどうなるだろう」
「間に挟むとどうなるだろう」
「あることを先に言うべきか、あとに言うべきか」
などを、
真剣に検討することになるのだ。
これって、
「情報のパズル」なんじゃないか、
ってことなんだよね。
あることを先にするか後にするかで変わってしまうのだから、
その順番をクリエイトすることになる、
というわけ。
一つのストーリーラインでもそうなんだけど、
複数のストーリーラインが走っている時、
同時進行している時などは、
それらの順番をすべて管理する必要がある。
だから、
あっちをこっちに切り貼りして、
こっちとあっちを統合して、
などのようにすることがとても多くなる。
これこそ、順番のパズル、
情報のパズルに他ならないと思うわけさ。
何に似ているのかなあ。
回路設計、運河の設計、ある場所の人の動線設計に似ているかもしれない。
僕が自作キーボードの回路設計や、
論理配列の指の動線設計や、
明大前駅の人の動線設計に切れているのは、
情報のパズルの美しさ
(最小の労力で実現される最大の効果)に、
敏感だからかもしれないね。
文学もそうである、小説もそうである、
だろうか?
脚本ほどそうじゃない気がするんだよなあ。
だから脚本家は、
文学科というより数学科に近いと、
僕は思っている。
パズル好きな人は脚本に向いているかもしれないぞ。
とくにリライトをするときに、
パズルの感覚はとても役に立つ。
多分小説とか、
10回書き直したり、
順番を入れ替えまくったりすることって、
あまりないんじゃないかなあ。
脚本では50稿とかあり得るしな。
それでもなお機能するように繋ぎなおすことが、
脚本家の仕事だったりするし。
2024年10月10日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック