2024年10月10日

脚本はパズル

脚本を文学や何かのように思っているとしたら、
結構間違いだと僕は思っている。
脚本は、文学的パズルであり、
小説よりもジグソーパズルに近いジャンルではないか、
と考えている。


まず文章力はそこまで問われない。
セリフの力は必要だけど、
ト書きの実力はそこまでいらない。
正確に、客観的に、やることさえわかれば、
文学的響きは必要ない、
むしろ邪魔だ。

以前に君塚良一の「目の覚めるような月」
というト書きの誤り(そんな月は撮影できない)を指摘したが、
ト書きは物理で用意するものさえあれば良い。

一方、
セリフは分かりやすさと文学的であることの、
両方が必要だけど。


小説は地の文こそが華だと僕は思う。
三島由紀夫などを読めばわかる。
地の文の世界の切り取り方、
世界の認識ともいうべきものが小説じゃないか、
とすら思う。
人間の行動や結果などどうでもよくて、
「世界をこう思う」ことが小説である、
などというと言いすぎだろうか。

だからこそ、小説は地の文をいかに文学的に書くか、
ということに苦心しているのではないか。

一方、脚本は、「世界をこう思う」のは、
文章内に明示的に必要ない。

世界を撮影した時点で、
そのような世界があるわけだからね。
だから、物理的に何を用意するかを整えれば、
それが世界になるわけだ。
「このように思」わなくても、
撮影すれば世界になる。
世界が残酷だというならば、そういうことが起こればよい。
世界が生きるに値すると思えば、そのような物語を書いて結末をつくればよい。

そんな風に、
起こることと結末のペアで、
脚本は「世界はこのようである」を表現する、
間接話法の文学だ。

だから、
何をどの順番で用意するか、
が重要になってくる。

順番が変わるだけで、
間接話法は影響を受けるからだ。


昔数学の先生が、
「殴ってさする」という技法を教えてくれた。
1引いて因数分解できるならば、
1引いて因数分解して、あとで1を足しておけば、
数学的に同値である、のような手法である。

数学だから「殴ってさする」ができるけどさ、
現実では無理だよな、などと話していた。
殴ってさすればプラマイ0か?という話。
なんで殴るんだよ、のほうがでかいよね。
また、これは、「さすって殴る」に交換できない。
数学的には出来るけどさ、
先にさすっておいて、次に殴ったら、
殴ったほうしか記憶に残らないよね。
その理不尽のほうが意味を持ってしまう。


秘密をばらすタイミングが、
ある事実Xがあったあとと前では、
随分その意図が変わることになる。
たとえばXが誰かの死ならば、
だいぶ意図を感じるだろうね。

恋してからセックスするのと、
セックスしてから恋するのはだいぶ違う。

こんな風に、
ちょっと順番を変えるだけで、
まったく違う意味になってしまうわけ。

クレショフのモンタージュ実験は、
あるもの(食べ物、葬式、赤ちゃん)を先に見せておいて、
そのあと無表情を見せると、
先行する文脈に対して、
いい芝居をしているように見える、
という、
順番が観客の解釈に影響を与える、
という実験でもあった。

(編集順が逆ならば成立しない。
無表情から文脈につないだとしても、
その無表情は冷酷とか感情を持っていない、
などの意味になるだろう)

映像は順番を入れ替えるだけで意味が変わってしまう。
だから、脚本家は順番に気を使い、
「順番を入れ替えるとどうなるだろう」
「このエピソードをこっちに移動するとどうなるだろう」
「これとこれはどっちが先に起こっているのだろう」
「ここを省略して直結してしまうとどうなるだろう」
「間に挟むとどうなるだろう」
「あることを先に言うべきか、あとに言うべきか」
などを、
真剣に検討することになるのだ。

これって、
「情報のパズル」なんじゃないか、
ってことなんだよね。

あることを先にするか後にするかで変わってしまうのだから、
その順番をクリエイトすることになる、
というわけ。

一つのストーリーラインでもそうなんだけど、
複数のストーリーラインが走っている時、
同時進行している時などは、
それらの順番をすべて管理する必要がある。
だから、
あっちをこっちに切り貼りして、
こっちとあっちを統合して、
などのようにすることがとても多くなる。

これこそ、順番のパズル、
情報のパズルに他ならないと思うわけさ。


何に似ているのかなあ。
回路設計、運河の設計、ある場所の人の動線設計に似ているかもしれない。

僕が自作キーボードの回路設計や、
論理配列の指の動線設計や、
明大前駅の人の動線設計に切れているのは、
情報のパズルの美しさ
(最小の労力で実現される最大の効果)に、
敏感だからかもしれないね。



文学もそうである、小説もそうである、
だろうか?
脚本ほどそうじゃない気がするんだよなあ。
だから脚本家は、
文学科というより数学科に近いと、
僕は思っている。

パズル好きな人は脚本に向いているかもしれないぞ。
とくにリライトをするときに、
パズルの感覚はとても役に立つ。


多分小説とか、
10回書き直したり、
順番を入れ替えまくったりすることって、
あまりないんじゃないかなあ。
脚本では50稿とかあり得るしな。
それでもなお機能するように繋ぎなおすことが、
脚本家の仕事だったりするし。
posted by おおおかとしひこ at 05:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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