ストーリーよりもキャラクターのほうが、
なぜ記憶に残りやすいのか。
これまでは感情移入という面から議論してきたが、
別の角度から考える。
アイデンティファイ、つまり、「見分ける」ということから考えよう。
アイデンティティー=同一性、それがそれであるとわかるもの
というものは、
アイデンティファイ=同定、それがそれであると認定すること
の結果行われる。
それがそれだ、と分り、
それはそれでない、と分かり、判別できるのは、
アイデンティファイするわけだね。
で、それがそれだと判別できるのって、
事件よりも人間のほうが敏感なんじゃない?
ってこと。
事件の概要があるとしよう。
ちょっと変えたものがあるとしよう。
それで違いが分かったりするものかしら。
事件発生時刻を30分ずらしたり、
犯人の逃走経路が多少変わったとしても、
「同じ事件」だと思うんじゃない?
それよりも、
人間の性格が多少変化したり、
髪型がちょっと変わったり、
態度が今日は変だったりするほうが、
「ちょっと違う」ってなるんじゃない?
つまり、
人間は、人間の変化に敏感、
ということだ。
髪型を変えたり、化粧を変えたりしたことに、
女子は気づかないと怒ったりするよね。
それはアイデンティティーが更新されたからだ。
気分の変化や性格の変化は、
それだけでテーマになる。
その敏感な「違いに気づくこと」がある、
ということだ。
性格や言葉遣いがちょっと変わっただけで、
「キャラ変」とか、「設定崩壊」にすぐつながるくらいだよね。
それと、事件や解決の段取りが変わっても、
同一のストーリーとみなされるくらいには、
事件と人間の同一性の感度が、
全然違うんじゃない?ってことだ。
「マイフェアレディ」と「プリティウーマン」は、
「同一の話である」と論じられることがよくある。
金持ちの男が、
文化を知らない美人の女を教育して、
一級のレディに仕上げて、
恋をする、という話だ。
マイフェアレディだと田舎の女、
プリティウーマンは売春婦、
と設定は異なるものの、
「同一の話」とよく議論される。
つまり、事件や解決の同一性は、
人間の同一性に比べて、ずいぶん幅がある。
ざっくりいうと、鈍い。
二つの話は構造こそ同一だが、
女の設定が田舎の女と売春婦という程度には異なる、
という風に議論される。
ここでは、ストーリー構造よりも、
人間の違いに着目されているわけ。
エピソードや構成をよく見れば、
全然違う構造なのだが、
「同一の話で人間が違う」という風に認識されがち、
ということだ。
つまり、
それだけ「人間の違いのほうに人は敏感」
という証拠だね。
原作ものの映画化の際も、
「ストーリーは多少改変してもいいが、
キャラを改変することは許されない」
という風潮がある。
「ストーリーを同一にして、
キャラクターは改変してよい」という風にはなっていない。
人間の違いに関するほうが、
見方は厳しいということだ。
というわけで、
ストーリーというのはいかようにも改変できる、
面白い限りにおいて、
という原則が成り立つ。
キャラクターの改変は、慎重になるべき、
というもうひとつの原則も成り立つ。
これがゆえに、
役者が尊重されて、
脚本家が低く扱われる、ということになるのかもしれない。
キャラクターをつくっているのも脚本家なんだけどさ。
セリフやキャラクターは目に見えるが、
ストーリーや焦点や構成やターニングポイントは、
目に見えない、
ということも大きいかもしれないね。
人は目に見えるものしかよくわからない。
ということで、
我々は、
よくわからないものをコントロールして創作する立場である。
ストーリーは改変しても構わない。
それは原作ものであろうが、
オリジナルであろうが同じだ。
極論、キャラ設定さえおもしろけば、
ストーリーはなんでもいい、マシなストーリーであれば、
という風潮すらある。
色々あるリブートもの、リメイク物は全部そうだ。
ストーリーなんてキャラ(人気役者)を活躍させる、
出し物に過ぎないわけだよね。
歌舞伎以来、座付きの脚本家は、
そのような要求を受けて捌いてきたわけだよね。
だからストーリーなんて、
いかようにも変えて良い。
よくなる方向に、どんどん改稿するべきなのだ。
2024年10月11日
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