配列を変えよう。
僕は薙刀式の作者で、薙刀式を普段使いしてるので、
薙刀式の何がいいかをプレゼンする。
思考がつながる。
逆にいうと、少なくともqwertyローマ字は、
思考を分断、寸断して、
連綿とした長い思考をすることを阻害している。
「配列を変える」ことの目的は、
書き始めから書き終わりまでの、
速度を速くすることだと一般には思われている。
だからか、以下のような「誤解」の文章を見た。
いわく、
自分は書いては考え、
考えては書くので、
実際のところは考えてる時間の方が長く、
たかがちょろっとの時間の「書く」を速くしてもしょうがない、
というような(大意)意見だ。
これは、
「配列は書く速度を速くする」
という狭い理解による誤解だと僕は思う。
思考、書く、思考、書く…という、
頭と手のリレーが存在するということは、
両者が分離していることを意味する。
段階が分かれてしまっている、とでもいうべきか。
これは、書くことの本質からそもそもズレている、
と僕は思う。
書くこととは、
思考を具体的に書き表すことで、
自分はこう考えていたのかと発見して、
じゃあこのように表現し直すべきかな、
と考えて、
こうも書けるな、と書いて、
そのことによって新しい思考が誘発され、
次々に書くことが浮かんできて、
それを具体的にフィックスすることで、
いやこうじゃない、こう書くべきだと考え…
のように、
頭(ふわっとしたもの)と手(具体)が、
お互いに影響を与え合うことだ。
たぶん、
そこまで行ってない人が、
「書くこととは、
頭の中から来たすでに確定した言葉を、
手で書き写すこと」
という、
浅い理解で止まってるんだと思う。
それは、手が不自由だから、としか思えない。
手がもっと文章を書くのに慣れていれば慣れているほど、
思考をぬるっと文字化できて、
それはすぐに思考にフィードバックされるはずだ。
手が文章を書き慣れていないから、
手がバタバタしてる間は思考が止まってしまい、
思考→手の作業→思考→手の作業…
と、分離してしまうのだろう。
これは、手が悪いのだ。
手書きで字が下手な人は、こうなりがちだと思う。
書き順がしっかりしてないと、
日本語は画数が多く、書きづらい文字が多いため、
字を書くのが嫌になってしまうのだろう。
書き順がしっかりしてれば、
日本語の字は流れるように崩せる、
と自分でわかるはずだ。
そして、文を書くのが速い人ほど、
独自の崩字を使う人が多い。
ここまで至って、
ようやく、思考と手がお互いに補い合いながら、
「同時進行する」という段階に来る。
思考と手が分離している人は、
手が悪く、この領域に来れなかった人のことをいう。
だから、
タイピングへの感度が鈍いのではないか。
手書きで書く汚い文字よりは、
タイピングされた文字の方が綺麗だし、
トータル速度が手書きより速いので、
タイピングを選んでいるだろう。
だから、書くことの本質に辿り着かぬまま、
qwertyで書いているのだ。
qwertyローマ字は、
書くことの本質、つまり、頭と手の相互作用に、
気づきにくい配列だ。
指の動線がつながらず、
飛び飛びにバタバタして、
文字を書く連綿とした流れというよりは、
つながらないアクロバットをやらされる。
そもそも速く書くのに、標準運指を破った、
独自の最適化が必要な段階で、
道具として劣っているとしか言いようがない。
だから、手の負担が大きく、
思考を「中断」してまで、
書く作業だけをやらされる。
つまり、
頭が手と分断している人が、
頭と手を分断させられて、一生その領域に閉じ込められてしまうのが、
qwertyローマ字という牢獄だ。
これが手書きならば、
下手くそながらも書くことを強制されているうちに、
獣道のように崩字が生まれて、
勝手に書くことが「流れ」になってくる。
そのうち、手の流れを利用して頭が思考を続ける、
などのようになり、
手が思考を生み、思考が手を生み、
のような、連綿とした運動が出来上がる。
これが書くことの本質だと僕は考えている。
手と思考は相互作用を与えながら同時進行する。
これを、qwertyローマ字は原理的に止めている。
つまり、qwertyローマ字を使い続けるかぎり、
人は書くことの本質に到達できない、
小学生止まりである。
なぜ僕がqwertyローマ字を嫌い、
批判し、時に攻撃して敵視するかの答えがこれだ。
qwertyローマ字では、本質的に書けないのだ。
書く行為を堰き止める、バリケードになっているのだ。
だから僕はこれを壊したのだ。
手書きの崩字のように指がつながり、
運動として滑らかになり、
その連綿とした手の動きが、
思考を生み出しやすくなるような、
自然な運動としての薙刀式をつくった。
これによって、
頭と手が連動して、
どちらも休まず、連綿と影響を与え合う、
「書く連綿」が出来上がっている。
速度は最重視していない。
現在の僕はかつての自分のqwertyより3倍速い。
これは「手を動かしている時間」のことではなく
(タイプウェルでいえば2倍程度しか速くなっていない)、
「考えて書き終えるトータル時間」のことだ。
これは、qwertyが書くことの本質を妨げていて、
薙刀式が書くことの本質を促しているから、
だと考えている。
もし、
考えを文字化して、また考えて、文字化して…
と書いている人がいるならば、
それは思考や書くことの本質に辿り着いてさえいない可能性がある。
つまり、そんな人は文章を書くのに向いてないから、
文章を書き続けることはしないだろうから、
じゃあqwertyでもいいか、
ってことになってしまう。
負のループが回っている。
書くことの、思考の牢獄である。
僕は、
知らず知らずその牢獄の罠に嵌められている人がいるのならば、
その人の思考を解放してあげたいわけだ。
以前、
いろは坂配列のめんめんつさんと議論した時、
僕の書き方を連続的思考、
考えては打ち、打っては考えるのを、間欠的思考、
などと名付けた。
間欠的思考ではqwertyは速いが、
連続的思考では、qwertyが邪魔することが、
僕よりも断然qwertyの速いはずのめんめんつさんの感想で、
わかっている。
すなわち、qwertyでは、
連綿とした思考をすることが、
高速タイパーですら無理なことがわかっている。
(もちろん人によるだろう)
もし、
手書きでは連綿とした思考ができるのに、
タイピングでは無理だという人がいて、
キーボードやタイピングを改善しなければならない、
と考えている人がいるならば、
qwertyを捨てることだ。
qwertyは人に思考の枷をかけ、連綿とした思考を分断して、
連続した長い論考(考えるのに数時間や数ヶ月かかるもの)を、
分断してゆく。
つまり、大きな考えができず、
寸断された小さなパッケージしかつくれない。
たとえばTwitter140字レベルに思考が落とされてしまう。
薙刀式は、これまで発明された、
あらゆる配列の中で、
手と思考の連続性について最も配慮された配列だ。
(最も、の根拠は、
実はこのことを議論してる配列作者が、
ほぼいないからだ)
だから、
考えて書く人に、(現状)最も向いている配列だと考えられる。
いや、私はqwertyでも、
連綿と不断の思考ができて、
書くことは思考することで、思考することは書くこと、
みたいな領域に来てる人がいたら、
コメントください。
ぜひ議論してみたいです。
薙刀式の動画を見ればわかるけど、
あれはひとつも原稿を用意してなくて、
アドリブで書いている。
書こうと思う意思があり、
書いたことで次を思いついて書いている。
手が休むことはほとんどなく、
書きながら次の思考を促している。
僕はそれが書くことだと思っていて、
そんな風にqwertyで出来る人の話を聞きたいのだ。
配列上の特徴で言えば、
薙刀式は日本語でよく使うフレーズで、
指がつながりやすいように設計されている。
ある、ない、する、して、こと、てき、などだ。
そんなふうにqwertyはなっていない。
指のリズムや難易度と日本語のリズムや難易度が異なることが、
僕には許せないのよね。
たとえばqwertyで「させられた」とかかなり打ちにくい。
これを1秒で打てれば連綿とした思考になるのだが、
ここで指が滞ることが問題だ。
qwertyにはそのような問題点が多数ある。
(前記事では「ぬるぬる」をぬるぬると書ける配列について論じた。
nurunuruよりも薙刀式の【B】I【B】Iのほうが、
よほどぬるぬるしているよ)
2024年08月03日
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