2024年10月16日

「実話をもとにした話」の限界

たまにあるよね。実話をもとにしたやつ。
based on the true storyと言われると、
なんか真実味がある気がする。

でもこれって限界があると思うのだ。


実話をもとにした話の、
優位点を考えよう。

まずリアリティがあることが考えられる。

脚本家が頭の中で妄想することよりも、
現実は解像度が高いから、
そのことを考慮したうえでの話になっている。
だから、想像もしないリアリティがそこにあることが多い。

また、成功のリアリティもある。
「そんなうまいこと行くわけないやんけ」
というのがフィクションにはよくあるのだが、
リアルな成功には、リアルな理由があるものだ。

つまり、
実際に成功する理由が豊富だし、
実際に成功したという担保があるということだ。

あるいは、説得力だね。

どんな無茶なこと、奇特なことが起こったとしても、
「実際にあったので」と逃げられる。
事実は小説より奇なり、と言われることもあるくらい、
現実で起こる奇妙なことは、脚本家の想像を超えてくることだってある。
通常の原稿で出したら、
「そんな阿呆なことが現実に起こるわけないだろ」と言われるが、
実際に起こったことなので、
と奇異なことでも通るわけだ。

「将棋少年が瞬く間に名人級になる」なんて、
漫画にしかないけど、藤井はそれを達成したし、
「ピッチャーもバッターも出来るすごいやつが、
ハリウッドスターくらい年収をもらう」
なんて大谷も漫画にしかないだろう。
そんなキャラクターを出したとしても、
「嘘つけ」と言われるのが普通だ。


また、
こうした実話をもとにした話は、
企画が通りやすい、ということもある。

リアリティは担保されているし、
みんなが知っている話だとしたら共感を呼びやすいし、
みんなが知らない話でも、それを発掘した喜びがあるだろうし、
関係各所に映画化するので、と話を通せば、
ロケ地や取材に協力してくれる可能性が高い。

脚本家のしょうもない妄想に大金を出して、
大コケするくらいならば、
確実な商売になるだろう、
という見込みがある。

だから、実話をもとにした話は、
なくなることはないと思う。
人が生きている限り、
奇抜な面白いネタを提供してくれるだろう。


でも僕は、
そこに限界を見るんだよね。

人がつくるフィクションよりも、
ほころびがあるように見えるからだ。


たとえば、
「完全なハッピーエンドにならない」ことがある。

その主人公が成功したとしても、
まわりが幸せになっていないこともあるし、
その主人公がその後どうなったか調べると、
映画化したそこだけが輝いていて、
その後幸福とは言えない人生を送っていたりすることも結構ある。
ああ、切り取りなんだなあ、とがっかりしたりする。

つまり、現実のエンドは、
フィクションのような完全なエンドではないことが多い。
そこに少しがっかりすることがある。


逆に考えると、
フィクションのエンドは、
完全なハッピーエンドであるべき、
ということなのだ。

考えられる限りハッピーエンドであるべきで、
そうなるのが当然のように、
全てを持っていくべきなのだ。
それが出来ていないから、脚本家の妄想レベルにとどまっているということだ。
それを超えて完全なものをつくれば、
現実のエンドよりもよきエンドをつくれるはずだ。
そのことによって、
何かを信じさせることが出来る、というわけだ。


つまり、現実では、テーマ性が希少である。

あるテーマに沿って事件が起こらないし、
あるテーマに沿って完璧なエンドが描かれることはまあない。
それが現実だからね。

だが、フィクションとは、
それを整理して、
テーマに沿って事件が起こり、
それを解決することはテーマを満たすことであり、
それによって完全なエンドが訪れる、
という、
現実を再整理したものなのだ。

それがリアリティにおいて現実に負けるならば、
脚本家のリアリティ構築能力が甘いだけに過ぎない。


また、
現実に起きる、小説より奇なるイベントは、
やはり無理があると思うんだよね。
これがフィクションならば、
無理がないように伏線を張り、
自然な範囲に収めるようにしてくる。

そういう丁寧な仕事がなされていない時点で、
現実は伏線が甘いと思うくらいだ。


つまり、
フィクションとは、
現実よりも「納得」を大事にするということだ。

現実は納得がいかないから、
より腹に落ちるもの、納得するものが、
フィクションの現実よりも優位なところだと、
僕は考えている。


だから、
実話をもとにした話は、
限界がある。
納得できるものにならない。
腹落ちするものにならない。
「現実にあったことだからな」と納得するしかない。

「〇〇というテーマは正しかったのだ! 俺たちは〇〇のように生きよう」と、
背中を押す力は、
現実では弱くて、
フィクションのほうが強いのだ。


だって現実の成功話は、
ただその人たちのスペックが高かっただけだから、
ということになりがちだからね。
極論、
その人は成功したかもしれないが、
自分は関係ないよ、と思いがち、
ということだ。

フィクションはそうではない。
自分と関係ない話なのに、
まるで「それは自分だ」と思えるように、
色々と仕組んでいくのであった。

それがsave the catのテクニックであったり、
感情移入という仕組みなのであった。


このように、
没入と整理が、
フィクションは現実より上回る。
逆にそうでなければ、
フィクションは現実を超えて面白くはならない、ということである。


というわけで、
一度実話をもとにした話を書いてみるのも、
勉強になると思う。
実話から離れすぎることが出来ないため、
それはそれで限界があることに気づく。

フィクションはそれを超えるものなのだ、
ということに気づけると思うよ。



(まあ実話を元にしたとか言いながら、
めちゃくちゃアレンジして傑作になった、
インド映画の「ダンガル」もある。
まあフィクションのほうがつよいよ)
posted by おおおかとしひこ at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック