声を出す観客より、出さない観客のほうが多い。
スポーツでもそうだろう。
出すのは一部の熱狂的なサポーターだ。
とくに日本人はノリが悪いから、
多くの人たちはサイレント観客だ。
スポーツでそうなのだ、
映画でもそうなるわけだよ。
ハリウッドで映画を見たとき、
日本とまったく違うリアクションの仕方をしていて、
文化を感じた。
拍手するし、ブーイングするし、
笑うし、泣くし、
応援するし、悪役が出てきたらブーイングする。
大成功するシーンが来たらイェスって叫ぶし、
ショックなシーンが来たらオーマイガッていう。
リアクションがまるで生のライブを見ているような感じだった。
いや、日本人だったら、目の前で演じていても、
こんなに声援は送らないか。
それくらい反応がビビッドで、
一度日本人はアメリカで映画を見るべきだと思ったなあ。
(それ以来、素晴らしい映画のときは、
エンドロールで拍手することに決めているし、
つまらない映画のときは、
エンドロールでブーイングすることに決めている。
もちろん、拍手とブーイングが同時に起こる映画もあってよいと思っている)
逆に、
日本の観客は静かすぎて、
送り手のこちら側から見て、
反応が分からなすぎると思う。
良かったのか、悪かったのか、
劇場から出る顔を見てても分からないのだ。
映画「いけちゃんとぼく」の試写会が何回かあったときは、
僕は舞台袖から、観客の顔をずっと見ていた。
ギャグで笑うのか、引くところはどこか、
夢中になるのはどこか、
ラスト号泣率の高いところで泣くのか。
退屈するのはどこか、姿勢がだらつくところはどこか、
逆に座りなおしたり、前のめりになるのはどこか。
そういう生の反応を見ることが出来て、
「ああ、自分が思うところと同じなのだな」と、
信用できたことをよく覚えている。
自分が失敗したところは反応が悪いし、
成功したところは反応がいい。
それだけのことだ。
地域差もとてもあった。
西日本での受けがよく、東日本の受けが悪かった。
西日本特有の感性の映画だと思ってたので、
それは数字にも出たということだ。
サイレント観客は不気味である。
何を考えているか分からない。
一部は数字で出るが、
それはすべてを意味しているわけではない。
でも、
観客として自分が判断する評価と、
たいして変わらない、
ということは知っておくことだ。
なぜなら、
大数の法則で収束するからだ。
逆に、声の大きな人たちを、全部と思ってはいけない。
ファンは声が大きいが、
全部ではない。
感想を直接言ってくれる人はとてもありがたいが、
それはサイレント観客ではなく、
一人の個人である。
個人の反応を集めて、はじめて集団になる。
しかし観客は一人一人の個人として、作品に向き合っている。
その両方をきちんと考えられるか、
ということである。
おそらく日本人の感性が大きく変わらないかぎり、
サイレント観客のほうが多い状況は変わらないだろう。
だから、あなたが「ただしい観客」であることは、
とても重要なのだ。
平均的な観客の反応をあなたが出来なければ、
声の大きな意見を、
すべてのようにとらえがちである、ということだ。
クレームに対応しすぎる企業は、
そうやって振り回される。
最近企業もそれに気づいてきて、
理性を取り戻しつつある所もあるが、
声が大きいからといって全体を代表しているとは限らないことを、
つねに意識の中に入れておくことだね。
サイレント観客こそが、
ほんとうに多い観客である。
暗闇に銃を撃つようだ、
と形容されることもあるが、
僕は違うと思っていて、
あの暗闇の中に、たくさんの僕がいるだけだ、
と思えばいいと考えている。
自分基準に考えるということではない。
映画を見るふつうの人として、
自分の感性を保てばよい。
そのメンテナンスを怠った時、
世間から外れていくのだと思う。
2024年10月20日
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