2024年10月20日

サイレント観客

声を出す観客より、出さない観客のほうが多い。
スポーツでもそうだろう。
出すのは一部の熱狂的なサポーターだ。
とくに日本人はノリが悪いから、
多くの人たちはサイレント観客だ。

スポーツでそうなのだ、
映画でもそうなるわけだよ。


ハリウッドで映画を見たとき、
日本とまったく違うリアクションの仕方をしていて、
文化を感じた。

拍手するし、ブーイングするし、
笑うし、泣くし、
応援するし、悪役が出てきたらブーイングする。
大成功するシーンが来たらイェスって叫ぶし、
ショックなシーンが来たらオーマイガッていう。
リアクションがまるで生のライブを見ているような感じだった。

いや、日本人だったら、目の前で演じていても、
こんなに声援は送らないか。
それくらい反応がビビッドで、
一度日本人はアメリカで映画を見るべきだと思ったなあ。
(それ以来、素晴らしい映画のときは、
エンドロールで拍手することに決めているし、
つまらない映画のときは、
エンドロールでブーイングすることに決めている。
もちろん、拍手とブーイングが同時に起こる映画もあってよいと思っている)


逆に、
日本の観客は静かすぎて、
送り手のこちら側から見て、
反応が分からなすぎると思う。
良かったのか、悪かったのか、
劇場から出る顔を見てても分からないのだ。

映画「いけちゃんとぼく」の試写会が何回かあったときは、
僕は舞台袖から、観客の顔をずっと見ていた。
ギャグで笑うのか、引くところはどこか、
夢中になるのはどこか、
ラスト号泣率の高いところで泣くのか。
退屈するのはどこか、姿勢がだらつくところはどこか、
逆に座りなおしたり、前のめりになるのはどこか。
そういう生の反応を見ることが出来て、
「ああ、自分が思うところと同じなのだな」と、
信用できたことをよく覚えている。

自分が失敗したところは反応が悪いし、
成功したところは反応がいい。
それだけのことだ。
地域差もとてもあった。
西日本での受けがよく、東日本の受けが悪かった。
西日本特有の感性の映画だと思ってたので、
それは数字にも出たということだ。



サイレント観客は不気味である。
何を考えているか分からない。
一部は数字で出るが、
それはすべてを意味しているわけではない。
でも、
観客として自分が判断する評価と、
たいして変わらない、
ということは知っておくことだ。
なぜなら、
大数の法則で収束するからだ。

逆に、声の大きな人たちを、全部と思ってはいけない。
ファンは声が大きいが、
全部ではない。
感想を直接言ってくれる人はとてもありがたいが、
それはサイレント観客ではなく、
一人の個人である。

個人の反応を集めて、はじめて集団になる。
しかし観客は一人一人の個人として、作品に向き合っている。
その両方をきちんと考えられるか、
ということである。


おそらく日本人の感性が大きく変わらないかぎり、
サイレント観客のほうが多い状況は変わらないだろう。
だから、あなたが「ただしい観客」であることは、
とても重要なのだ。
平均的な観客の反応をあなたが出来なければ、
声の大きな意見を、
すべてのようにとらえがちである、ということだ。

クレームに対応しすぎる企業は、
そうやって振り回される。
最近企業もそれに気づいてきて、
理性を取り戻しつつある所もあるが、
声が大きいからといって全体を代表しているとは限らないことを、
つねに意識の中に入れておくことだね。


サイレント観客こそが、
ほんとうに多い観客である。

暗闇に銃を撃つようだ、
と形容されることもあるが、
僕は違うと思っていて、
あの暗闇の中に、たくさんの僕がいるだけだ、
と思えばいいと考えている。

自分基準に考えるということではない。
映画を見るふつうの人として、
自分の感性を保てばよい。
そのメンテナンスを怠った時、
世間から外れていくのだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 09:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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