フィクションというのは、
あなたの妄想の中で整理しなおされた現実の再構成である。
理想主義に陥ってしまうのは当然だ。
その客観性を持とう。
世界観は理想主義に陥りがちだ。
信賞必罰、なくしものは見つかる、
親切な人が多い、恩を恩で返すような、
たとえば田舎のような優しい世界になりがちだ。
ヒロインは理想主義に陥りがちだ。
美しく、清く、せすじがまっすぐになる。
あるいは都合のよい何もかも受け入れてくれる、
理想的な女になりがちだ。
ヒーローも理想主義に陥りがちだ。
正義心があり、なんでも引き受け、
悪を憎み、弱気を助ける。
上司も理想主義に陥りがちだ。
責任を取ってくれて、
指導が明確で、豪快だったりする。
成功も理想主義に陥りがちだ。
成功の段取りはしっかりしていて、
すべてに理由がわかり、分解できる。
現実はこうではない。
自分の知っている現実はリアルに書けるかもしれない。
現実の整理されていない、
理想主義じゃ全然ない、汚い、カオスな部分は、
あなたの知っている世界なら書けるかもしれない。
(たとえば部活、毒親、田舎の嫌な世間など)
だけど、あなたの経験していない世界を、
理想主義的に描きがち、という傾向があることは、
自覚しておくといいかもしれない。
男の描く女子校や女の描く男子校などは、
その典型だろうね。
モテナイ男たちが書く、
「女たち3人がスイーツ店で会話する」場面なんて、
現実を離れた、ふわふわした会話になってしまうだろうね。
人は、知らないものに対しては、
理想を投影しがちだ。
理想、ではないならば、偏見、といってもいいかもしれない。
だから、取材するのである。
リアルを知って、それから理想主義になるまで、
フィルタを濾すのだ。
現実の濁りやイガイガしたものを、
うまく濾して、理想と現実のブレンドされたものに、
するべきなのだ。
理想の人生を描こう、
といったって、多分メアリースーのような、
甘えたご都合主義しか出てくるまい。
それは、理想は甘いということである。
現実はそうではない、
といくら理想主義者に言っても多分何を言われているか分っていない。
だから、取材して、
現実とはどのようなものかを見に行くのだ。
(聞きに行ってもよい)
自分の知っている現実のリアルをそのまま描くことも、
フィルタで濾されていなくて苦々しいだけだ。
うまく理想主義と混ぜて、
うまくフィクションにしなければならない。
ただ、自分のよく知っている世界では、
そんな甘いことに変換できるわけがない、
と思ってしまうことが多い。
だから、自分の知らない世界を理想主義としていったん設定したうえで、
あらためて現実を取材して、
現実と理想を混ぜていくとよいだろう。
最近よくあるのが毒親ものだ。
みんな毒親が嫌いなのか、
それとも親世代の子育てが失敗したのか、
親ガチャを外した人たちが多かったのか、
原因は分からない。
でも毒親ものはたいてい幸せな結末にはならない。
幸せな結末を現実で体験していないから、
幸せな理想がちゃんちゃらおかしくなるんだと思う。
そんなものを書いても、みんなが幸せになれるものは少ない。
だから、毒親ものを書きたいときは、
毒親を主人公にしたり、
毒親と子供の間に入る人を描いたりして、
自分の立場とは違う話を書くと、
別の角度から現実を見られると思うよ。
所詮知らない世界は、
理想主義に書いてしまう。
知っている世界は、リアルすぎて希望が嘘くさくなってしまう。
フィクションとは、その間にいるべきものだ。
適度に現実を反映させて、
適度に理想を語れなければ、
力を抜いて楽しめるものにならないだろうね。
2024年10月22日
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