セリフは才能だ。
セリフは書きまくれば書けるようになる。
どちらも真実だ。
結果的にうまくなれば何も問題ない。
で、結果うまいセリフを書く人って、
解像度が高いと思うんだよな。
どういうことかというと、
「色んな立場の人の見るものを解像度高く分っている」
ということだと思う。
まず作品内。
その発言する人のこと、
発言を聞く人のこと、
その影響を受ける人のこと、
その場に参加している人のこと、
などの思惑や考えることを、
全部ひっくるめて考えたうえで、
セリフに書いているか、ということだ。
作品外。
受け取る人たちが様々な反応をするだろうこと。
男はどう反応するか。
女はどう見るか。
若い人はどう見るか。
年寄はどう見るか。
おっさんは、おばはんは。
作品内に社会があり、
作品外にもリアル社会がある。
それらに生息している人たちの、
思惑や感想や世界を考慮に入れたうえで、
それらの人々が満足するように書けるか、
ということだと思うんだよね。
解像度高く、それらを捉えていれば、
それを書くことが可能になると思う。
逆に、
誰のことも考えずに書いていると、
一方的でつまらないセリフになるということ。
それは、視野が狭く、
解像度の低い世界観なんだよ、
ということ。
もちろん、
すべてのセリフが解像度高い理解で書くわけではない。
一方的で自己中心的なセリフを書くべき時もある。
だから、
解像度を低いものから高いものまで、
使い分けられる人が、
うまいセリフを書ける、というのが本当のところ。
解像度が高いのはその必要条件に過ぎないだろうね。
プロともなれば、
コンプライアンスに配慮したセリフ遣いを求められたり、
多様性に配慮した言葉遣いに配慮したりしなければならない。
作品内の世界だけの解像度だけでなく、
作品外の世界の解像度を上げる必要がある。
そして、
何もかもがんじがらめになると、
いいセリフが書けなくなる(疲れるから)ので、
いつ解像度を上げ、
いつ解像度を下げるべきかを判断して、
自在に使い分けないといけない必要も出てくると思う。
作品内に出てくる登場人物が10人だとして、
その10人の世界の解像度だけを見ていていいわけではない。
その作品を伝えるべき、1億人、70億人の、
解像度を考えるべきときもあるだろう。
(なんなら、何十年何百年のスパンでの、
人類の解像度だってありえる)
多分、
セリフが下手な人は、
その人の言いたいことだけを書いているだけだ。
相手がどう思うか考えて発言していなかったり、
それを計算した上での発言を考えて書いていなかったり、
それを無視している発言を意図して書いていなかったり、などの、
会話の目的や様相に対する解像度も低いんだと思う。
少なくとも京都人のようなセリフを書けないと、
セリフがうまいとは言えないだろうね。
思っていることと発言が100%真逆なセリフだってある。
使い分けられているだろうか。
その言葉だけを書いても分からないから、
文脈ごと誘導する必要がある。
その「つくり」からやっているか、
ということさ。
解像度を上げるのは、
その発言の中のワードだけではない。
それを聞いている人全員の、
解像度を上げない限り、
解像度そのものは上がらない。
これも国語力かな?
作文などで習う授業の範囲じゃないだろうね。
もちろん、
それを最初から習わなくても出来る人がいる。
そういう人は、セリフは才能だと思う。
努力して解像度を上げ、
色んなことを考えながら書けるようになる人もいる。
そういう人は、セリフは練習や場数だ、
と思うようになるだろうね。
まあ、いろいろやってみないとわからないことも多い。
場数を踏んでいる人の書くセリフは、
間違いなくうまいものだよ。
2024年10月23日
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