2024年10月23日

セリフのうまい人は、解像度が高い説

セリフは才能だ。
セリフは書きまくれば書けるようになる。
どちらも真実だ。
結果的にうまくなれば何も問題ない。

で、結果うまいセリフを書く人って、
解像度が高いと思うんだよな。


どういうことかというと、
「色んな立場の人の見るものを解像度高く分っている」
ということだと思う。

まず作品内。
その発言する人のこと、
発言を聞く人のこと、
その影響を受ける人のこと、
その場に参加している人のこと、
などの思惑や考えることを、
全部ひっくるめて考えたうえで、
セリフに書いているか、ということだ。

作品外。
受け取る人たちが様々な反応をするだろうこと。
男はどう反応するか。
女はどう見るか。
若い人はどう見るか。
年寄はどう見るか。
おっさんは、おばはんは。

作品内に社会があり、
作品外にもリアル社会がある。
それらに生息している人たちの、
思惑や感想や世界を考慮に入れたうえで、
それらの人々が満足するように書けるか、
ということだと思うんだよね。

解像度高く、それらを捉えていれば、
それを書くことが可能になると思う。
逆に、
誰のことも考えずに書いていると、
一方的でつまらないセリフになるということ。
それは、視野が狭く、
解像度の低い世界観なんだよ、
ということ。

もちろん、
すべてのセリフが解像度高い理解で書くわけではない。
一方的で自己中心的なセリフを書くべき時もある。
だから、
解像度を低いものから高いものまで、
使い分けられる人が、
うまいセリフを書ける、というのが本当のところ。
解像度が高いのはその必要条件に過ぎないだろうね。


プロともなれば、
コンプライアンスに配慮したセリフ遣いを求められたり、
多様性に配慮した言葉遣いに配慮したりしなければならない。
作品内の世界だけの解像度だけでなく、
作品外の世界の解像度を上げる必要がある。
そして、
何もかもがんじがらめになると、
いいセリフが書けなくなる(疲れるから)ので、
いつ解像度を上げ、
いつ解像度を下げるべきかを判断して、
自在に使い分けないといけない必要も出てくると思う。

作品内に出てくる登場人物が10人だとして、
その10人の世界の解像度だけを見ていていいわけではない。
その作品を伝えるべき、1億人、70億人の、
解像度を考えるべきときもあるだろう。
(なんなら、何十年何百年のスパンでの、
人類の解像度だってありえる)


多分、
セリフが下手な人は、
その人の言いたいことだけを書いているだけだ。
相手がどう思うか考えて発言していなかったり、
それを計算した上での発言を考えて書いていなかったり、
それを無視している発言を意図して書いていなかったり、などの、
会話の目的や様相に対する解像度も低いんだと思う。

少なくとも京都人のようなセリフを書けないと、
セリフがうまいとは言えないだろうね。

思っていることと発言が100%真逆なセリフだってある。
使い分けられているだろうか。
その言葉だけを書いても分からないから、
文脈ごと誘導する必要がある。
その「つくり」からやっているか、
ということさ。

解像度を上げるのは、
その発言の中のワードだけではない。
それを聞いている人全員の、
解像度を上げない限り、
解像度そのものは上がらない。
これも国語力かな?
作文などで習う授業の範囲じゃないだろうね。

もちろん、
それを最初から習わなくても出来る人がいる。
そういう人は、セリフは才能だと思う。
努力して解像度を上げ、
色んなことを考えながら書けるようになる人もいる。
そういう人は、セリフは練習や場数だ、
と思うようになるだろうね。


まあ、いろいろやってみないとわからないことも多い。
場数を踏んでいる人の書くセリフは、
間違いなくうまいものだよ。
posted by おおおかとしひこ at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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