そういえば見てなかったわ、と思って見てみた。
私小説の映画化である。
つくづく、
小説は一人称で、映画って三人称なんだなあ、
って痛感できる稀有な作品。
普通ならば恥ずかしくてやめちゃうところを、
村上春樹だからって突っ走ってやってしまってる、
恥ずかしい映画。
色々な衣を被っている。
俺カッコいいという、様々な衣を。
その衣の中身は、
「俺は本当の感情を出せなかった。
いまさら遅い。つらいよう」
を、耐えてる俺であった。
北海道で運転手の子に本音を言って、
抱きしめられるビッグマザー場面が、
本作のクライマックスだ。
なんという恥ずかしい場面よ。
他人の赤ちゃんプレイを見させられた気分だ。
ここで心が全裸になるまでには、
様々な厨二病的カッコいい俺の衣がある。
赤い古い車を丁寧に乗ってる俺。
(しかも運転手に大切に乗ってると褒められる俺)
タバコを吸うカッコイイ俺。
演劇の演出家兼主演の俺。
(安直なテレビじゃなくて、芸術としてわかってる俺)
そもそも上下黒でスタイリッシュな俺。
一時間かけてセリフの練習をしている俺。
(しかも亡き妻の吹き込んだ、
感情のない声と掛け合いをする、感情のない俺)
感情のなさ=感情を爆発させるためのメソッドは俺開発。
チェーホフは自分をもってかれる。
そんなのをやってるカッコイイ俺。
運転を分かってる若い女に車を褒められる俺。
オーディションをするカッコイイ俺。
バーでウィスキーとタバコを嗜む俺。
妻がセックス中に脚本を思いつき、
それを翌朝語り直すカッコイイ(病んだ関係の)俺。
傷つきあった同士で傷を舐め合うカッコイイ俺。
そしてラスト、
自分の言葉すらなく、(権威ある)チェーホフの言葉で、
俺の心を説明される俺。
さらに、
傷を舐め合い理解し合えた
(そしてサンルーフからタバコを外に出し合った仲の)
若い女に理解されてる俺。
これらは、
一人称なら没入するから、
読者の変身願望を満たすだろう。
現実の俺はヘッポコだが、
小説の中だけではカッコイイ俺。
ハードボイルドと同じ構造である。
だけどそれは、
三人称から見たら、
カッコの衣で自分をうそぶいている、
嘘つき野郎、腰抜け野郎なのだ。
三人称においては、
言葉は容易に嘘がつけるので、
行動だけが真実なのであった。
ところが「テキスト」とずっと言っていたように、
この話の中で重要なのは言葉だ。
まったくリアリティのない、教養溢れたセリフしか吐かない、
登場人物たちを見ていてもわかる。
言葉は三人称では嘘である。
一人称では、言葉はきっと真実なのだろう。
逆に、行動を見てみよう。
主人公は、
オーディションで感情をまず排する。
何かが俳優の中で起こる、それを観客に見せる、
というがそれが何かを言わない。
そして北海道に行き、後悔の涙を流して主役を引き受ける。
しかし自分で何かを言うのではなく、
手話で自分の言いたいことを代弁してもらう。
それだけ。
感情を排したのはなぜかは、明らかにされない。
外国語ばかりの舞台だから、まずきっかけを覚えさせるためで、
あとで感情を乗せるための土台作りだと考えられるが、
明言はされない。
つまり、この人の行動は、
「考える時間をくれ」と北海道まで行った
(正確には運転させた)ことと、
本音を言って泣いて、
主役を引き受けただけだ。
三人称では、セリフは嘘をつく。
行動だけが真実だ。
というわけで、
この物語は、
嘘の衣で自分を覆った男が、
若い女に本音を言って抱きしめられるために、
北海道に行く話である。
なんやそれ?
ディテールはとてもよく、
岡田将生が「物語の続き」を語る、
車の中のシーンはとても良かった。
(西島は残念ながら受けの芝居しかなかったよな)
撮影も照明もロケーションもとてもよい。
運転手の子の生い立ちもなかなかよく、
地滑りで潰れたままの家もよかった。
(人格の分裂はやりすぎじゃね)
だけどそれがぜんぶ、
ぼくちんの赤ちゃんプレイのための、
衣なんよね。
一人称のオナニーをするなら、
金を取れるオナニー、つまりストリップショウにせよ、
と僕は言っている。
金が取れるかねえ。撮影技術だけだな。
三人称では、オナニーはみっともないのだ。
それが如実にわかる映画。
僕は村上春樹は読んだことがない。
文体のスノッブさが鼻につく。
そのスノッブは、すべてカッコイイ俺の衣なのかね。
映画になったものは、
ノルウェイの森とこれしか見てないけど、
どちらも似たような印象だな。
地に足がついてない、厨二病ぼっちゃん大学生の妄想かな。
文学的価値を語れる方がいたら、
是非解説をおねがいします。
カンヌ脚本賞もうなづける。
言葉を大事にするフランスらしい受賞だな。
日本語の芝居くさいニュアンスが翻訳で抜ければ、
結構まともなことを言ってるように感じるからね。
アカデミーの国際長編賞はよくわからん。
他にいいのがなかったのかね。
(追記)
そもそも作中で「斬新な演出」と言われていた、
チェーホフを複数の言語の俳優で演じる方法論。
なんでそんなことをやるのか、
それが何を表現してるのかについて、
あまりにも立ち入ってないな。
「人はそもそも理解し合えない存在である。
しかし時を経るうちに理解し合える部分が出てくる
(100%の理解はないのだが)」
ことを言ってるようにも思える。
妻のことをそのように言っていたし。
だけど、だとしたら、
劇の最初からセリフを字幕出して、
会話噛み合ってるやん、言葉通じてる体でやってるやん、
と思ってしまう。
相互理解とはそのようなものである、
それを北海道で得たのだ、
だとしたら、
3時間もやるわりには浅い話じゃなかろうか。
そのこと自体は5秒で理解できるし。
それでも生きるしかないんです、を、
チェーホフの言葉でなく言うべきなんじゃないか。
間違ったって正しくあろうとすることが人間なんだから、
そこを隠れ蓑からやるなよな、と僕は感じた。
2024年08月04日
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