2024年10月28日

映画は、明るいか、暗いかだ

映画らしい華やかさが必要だという。
それはそうだろう。
見世物としての価値は、夜店でピカピカ光るものだ。

同様に、日常よりも暗いものも、見世物になる。
井戸や洞窟の暗さを、安心してのぞけるからね。


だから、物語が見世物である、
ということの意味は、
日常から逸脱したものを見る、
ということだ。

華やかな、たとえば宝塚のような貴族の社交ダンスを見るのも映画だし、
暗い復讐に駆られて、裏社会に身を投じるのも映画なわけ。

あとは、
見たことのない光の場所か、見たことのない暗い場所か、
が重要だろうか。
知っている明るい場所は、定番だけど飽きる。
知っている暗い場所は、もう怖くないとバレている。
だから、
より新しい華やかな場所か、
より新しい暗い場所が、
新しい映画には必要だと思う。

人が考える華やかさでなくてもよい。
これは新しい光の当たる場所だ、
というプレゼンでもよい。
人が考える暗さでなくてもよい。
これは新しい闇の領域だ、
というプレゼンでもよい。

あとは、その新しさに人が気づき、納得するか、
に尽きると思っている。

いずれにせよ、
必要なことは、
「日常の枠組みを逸脱する」ことだと思っている。
日常の延長線上にいるのは、
物語としてはつまらない。
その逸脱こそが、
「安心できる日常にいて見るもの」の特権というものだ。


安心できない日常にいる人は、フィクションなど見ない。
フィクションは暇人=安心できる日常にいる人のものだ。

倒産しそうな会社を抱えている人は、映画館に行かない。
立て直すヒントを探しに、色んな人に話を聞きに行くだろう。
日常に守られて、安心している人だけが、
刺激を求めるのだ。
不倫して刺激を得られている人は、多分映画館に行かない。
それが終わって、嘆いているときに、
映画館にはいくかもしれないが。

物語を見世物にする。
それは、いつもと違うものを安心して見れるように用意する、
ということだ。

飛び切り明るい、華やかな世界がひとつ。
それだけじゃ飽きるから、
暗い世界もひとつ。
バランスは興行主が決めるだろうね。


中途半端なものが一番扱いにくい。
明るいか、暗いか、はっきりさせたほうがいいと思う。
もちろん、暗い所から明るい所へトンネルを抜けるもの、とか、
明るい所から暗い所へ転落するもの、
とかでもいいよ。
テーマや力点がどっちにあるかで決めてよい。


「ジョーカー2」は暗すぎるから、
ミュージカルで明るいふりをした。
「ダンサーインザダーク」と同じだ。
暗すぎてそういうバランスをとる場合もあるね。
posted by おおおかとしひこ at 11:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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