映画らしい華やかさが必要だという。
それはそうだろう。
見世物としての価値は、夜店でピカピカ光るものだ。
同様に、日常よりも暗いものも、見世物になる。
井戸や洞窟の暗さを、安心してのぞけるからね。
だから、物語が見世物である、
ということの意味は、
日常から逸脱したものを見る、
ということだ。
華やかな、たとえば宝塚のような貴族の社交ダンスを見るのも映画だし、
暗い復讐に駆られて、裏社会に身を投じるのも映画なわけ。
あとは、
見たことのない光の場所か、見たことのない暗い場所か、
が重要だろうか。
知っている明るい場所は、定番だけど飽きる。
知っている暗い場所は、もう怖くないとバレている。
だから、
より新しい華やかな場所か、
より新しい暗い場所が、
新しい映画には必要だと思う。
人が考える華やかさでなくてもよい。
これは新しい光の当たる場所だ、
というプレゼンでもよい。
人が考える暗さでなくてもよい。
これは新しい闇の領域だ、
というプレゼンでもよい。
あとは、その新しさに人が気づき、納得するか、
に尽きると思っている。
いずれにせよ、
必要なことは、
「日常の枠組みを逸脱する」ことだと思っている。
日常の延長線上にいるのは、
物語としてはつまらない。
その逸脱こそが、
「安心できる日常にいて見るもの」の特権というものだ。
安心できない日常にいる人は、フィクションなど見ない。
フィクションは暇人=安心できる日常にいる人のものだ。
倒産しそうな会社を抱えている人は、映画館に行かない。
立て直すヒントを探しに、色んな人に話を聞きに行くだろう。
日常に守られて、安心している人だけが、
刺激を求めるのだ。
不倫して刺激を得られている人は、多分映画館に行かない。
それが終わって、嘆いているときに、
映画館にはいくかもしれないが。
物語を見世物にする。
それは、いつもと違うものを安心して見れるように用意する、
ということだ。
飛び切り明るい、華やかな世界がひとつ。
それだけじゃ飽きるから、
暗い世界もひとつ。
バランスは興行主が決めるだろうね。
中途半端なものが一番扱いにくい。
明るいか、暗いか、はっきりさせたほうがいいと思う。
もちろん、暗い所から明るい所へトンネルを抜けるもの、とか、
明るい所から暗い所へ転落するもの、
とかでもいいよ。
テーマや力点がどっちにあるかで決めてよい。
「ジョーカー2」は暗すぎるから、
ミュージカルで明るいふりをした。
「ダンサーインザダーク」と同じだ。
暗すぎてそういうバランスをとる場合もあるね。
2024年10月28日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック