2024年11月07日

言外の意図

サブテキストサブテキストってやたらと使う、
どこかの脚本理論を見かけて、
オイオイ日本語には言外の意図ってのがあるやろ、
と苦笑いする。
そんなん、京都に三代住んだらわかるよし。

さて、
言外の意図をどうつくるか。


Aという言葉を言いながら、
実はBという意図を含むことだよね。

まずは文脈がそれを決める。

たとえば、
同級生がバイトで働いてるときに、
友達がみんな来て注文する時に、
そのバイトが「〜でございますね」とか、
マニュアルの言葉を使ってる場面って萌えるよね。

ほんとは同級生とキャッキャやりたいくせに、
オフィシャルな言葉遣いをしなくちゃならない、
そのギャップがおもしろい。

これを利用しよう。


すなわち、
オフィシャルとプライベートの、
二つの文脈を同時に走らせれば良い。


プライベートではこう言いたいのだが、
オフィシャルとしてはこう言わざるを得ない、
という場面をつくれれば、
オフィシャルな言葉は言外の意味を持つ。

いろんな場面が作れるだろう。

刑事が親友を逮捕しなきゃいけないとき、
親友がその前にタバコを一服、
と言ってもタバコを渡せず、
しかし手錠をかけたあとは一本渡す、
みたいな公私の葛藤は、
それだけで場面になるだろう。

ほんとは君のことを愛してるんだ、
だけど君の幸せを考えたら、
今ここで僕はさよならと言うしかないんだ、
なんて場面は、
古今東西の映画で死ぬほどあったろう。


先日書いた話では、
「コーチとしては反対する。
だが、男としては賛成する」
という場面があった。
言外の意味ではないが、
二つの立場で引き裂かれている、
と言う意味では同じことだ。

京都人の、
「おたくのお子さん、ピアノ上手くなりはりましたなあ」も、
表面上の付き合いの外面と、
「うるせえ」という内面の、
二つに引き裂かれているわけだ。
京都人はそれをナチュラルに使ってくる。
それを読み取れる文化程度かを確認してるんだね。



人には立場というものがある。
Aという立場でいるべきか。
Bという立場でいるべきか。
そこに葛藤がある。
Aという立場を取るふりをして、
ほんとうはBを伝えたい、
という葛藤があるわけだね。

この場合の葛藤は、
コンフリクトの誤訳としての葛藤ではなく、
語義どおり、
心の中で激しく迷うことだ。
しかしいつまでも葛藤した状態は許されないため、
Aとして発言するしかない中で、
Bを含むようにすればいいんだね。


文化的な定型をもつ、
言外の意図もある。

「ごめんなさい、私忙しくて」は、
「あなたのデートを受けません」だし、
上司の「ちょっと食事でもどうだ」は、
辞令がらみの何かだろう。
まあろくなことじゃない。

こういうものを集めておいて、
いざという時に使えるといいよね。

あるいは、
定型をわざと使って、
さらに異なる言外の意図を含ませる、
高等テクニックもあろう。

自分の書いたやつでいえば、
風魔10話の、
「では小次郎は死ぬか、風魔の里へ帰ってしまうのね?」
に対する、
「そうです」がそれだね。
わざと敬語にすることで、
主君と忍びの関係性、踏み込んではいけない領域の、
線を引く行為だからね。
これまでデートしてたのが、急にシビアな雰囲気になる、
このゾクゾクする感じは、
言外の意図を理解するからだ。


もちろん、
決めの場面で使わなくてもいい。
軽口を叩く時にも使えるかも知れない。

セリフ通りの意味しか人間は喋らないわけないよ。
ほんとにそうだとしたら、
現代国語教育の失敗だよな。

文化とは、AでBを言うことなんだから。



ためしに、
以下の言外の意図を書いてみたまえ。

・日経株価を言うことで、愛の告白を言う
・エロ単語だけで、会社の行末を心配する
・駅員のセリフだけで、親の死を悲しむ

とくに正解はない。
できるかどうかも考えてないw
名セリフになったら、どこかで使ってみて。
posted by おおおかとしひこ at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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