効率がいい、競技的に速い、疲れない、
などを客観的に議論されがちな論理配列だけど、
別の指標もあると思う。
薙刀式はときどき、楽しいとか、
気持ちいいとか、喜びのある配列などのように、
言われることがある。
僕は、本来書くことはとても楽しいものだと思っている。
一方、
作文や論文で苦しめられた記憶のある人は多いかも知れない。
でもそれは国語教育が悪かったんだな。
体育で苦しめられた記憶で、
運動が嫌いになった人(僕だ)が、
運動の喜びを知ることは結構難しい。
学校教育は平均に合わせてるから、
「すでにできてる人を伸ばす」は出来るんだけど、
「最初からできてない人に、できるようにさせる」
はかなり出来てないと思う。
僕は体育の時間が嫌いだった。
60分「出来ない時間」を強制させられたからね。
「出来るまでやる」だけの時間もなく、
そもそもモチベがなかった。
コンプレックスを感じて、
非難の目を感じながら過ごす60分間を、
小学校から毎週受けてきたら、
縮んでやらなくなるのは当然だ。
両親に習い事としてのプールに通わされたせいで、
プールの授業だけは大好きだった。
人より優越感があったからね。
それはいまだにプールで痩せるために運動を続けてる、
原体験になっている。
書くことは楽しい。
それを知るには、
最初から書ける人でないと、
今の日本の国語教育では難しいかも知れない。
僕は体育が苦手だった代わりに、
絵を描くことや文を書くことが得意だった。
得意なのは楽しいし、伸びるものだ。
書道も好きだったので、
字を書くことはどんどん伸びてきた。
たぶんこういう人は、10%とか30%くらいだろうと想像する。
体育と同じだとすればね。
まあ、人の能力は凸凹してるから、
ほんとに向いてる向いてないがあるかもしれない。
でも、
喋るのが嫌いな人っているのかな?
うまく喋れなくてもいいから、
好きなことを好きなだけ喋れる場があったら、
そしてそのことについて、
後腐れなく全部忘れてくれる場があったら
(誹謗中傷や差別があってもOKとする)、
みんな喋ること自体はたのしいんじゃない?
まあ、それがネットであることは論を俟たない。
本名公式での発言は、
最近ずいぶん縛られるようになったけど、
匿名アカなら人の本性が出る。
めちゃくちゃな文から、
愚痴から、
まともな文まで、
人は好き放題ならたくさん喋ること自体は好きだと思うんだよね。
それを外に向けて加工することが、
書くことかも知れない。
いや、日記なら、人に見せるものでもないから、
好き放題書けばいい。
じゃあ書くこと自体はたのしいと思うんよな。
それを人に見せるとなったら緊張が走るだけで。
つまり、緊張なく書ければ、
それはたのしいんじゃないかと思う。
僕が体育が苦手なのは、
ダメだと思われるのが嫌で、緊張してるからだろう。
明らかに優位な環境、
たとえば三歳児の中で俺一人がいれば、
体育も楽しいと思うんだよな。
つまり、「書く」を緊張させては、
たのしくならないと思う。
いくつか障壁がある。
日本語の文字の手書きは難しい部類だ。
書道をきちんとやってれば、
崩し文字、続け文字をやれば楽になることを、
学校できちんと教えられてない。
(僕は得意だったので自得したが、
これに気づけなかった70〜90%の人は脱落してる?)
他人の目を意識して緊張するのもあるが、
これは見せないとか匿名でなんとかなる。
手書きが苦手な人が、
タイピングが得意になることは良くあるっぽいね。
つまり、喋ること、書くこと自体は、
楽しいからなんじゃない?
手書きが苦手なのが障壁だっただけでね。
僕は、qwertyが障壁だった。
手書きなら楽しいのに、
デジタイズの時代に、
qwertyが「書くことが楽しい」と思わせる道具とは思えなかった。
だからそれをフルボッコにして、
「書くこと」の本質に立ち返り、
薙刀式にそれを込めた。
結果、書くことが楽しいと言われて、
本質を理解されたなあ、と安堵するとともに、
書くことが楽しいと、
理解されて欲しいと思っている。
高尚なことや偉大なことを書く必要はない。
それはプロがやります。
別にプロがやらなくても、
草野球は楽しいはずだ。
草の根文学や、言いたい放題のブログやTwitterで、
書くことを楽しめばいいと僕は思う。
その時に、qwertyよりも、
薙刀式が楽しいのは当然だろう。
もちろん、薙刀式が最も楽しい配列とは限らない。
人によって合う筆記具が異なるから、
新下駄や飛鳥や親指シフトや漢直など、
名作は一通り触ってみてもいいかも知れない。
薙刀式の一番の楽しさはアルペジオだ。
しかもよく使うフレーズに頻繁に出てくる。
そしてそれは、どんな文章でも繰り返し出てくる。
アルペジオが、確率的によく出るパターンに当てられてるのではなく、
繋ぎの語に当てられているからだ。
繋ぎの語とは薙刀式特有の分類で、
助詞、助動詞や動詞の語尾、活用語尾、代名詞など、
話の骨をつなぐ、関節の接続部分のイメージだ。
そこが繋ぐのが速くて楽しいわけ。
日本語は膠着語である。
ある言葉とある言葉を繋いで、さらに次に繋いで…
という構造をしている。
その接着剤、関節がスムーズに楽しくなるんだから、
「次々に繋げる」のが楽しくなる。
何を次に繋げようかな、
あ、あれとあれが繋がるぞ、
と、繋げることが楽しくなる。
それってほとんど、書くことの楽しさと同じわけさ。
世界に対して、あることとあることを繋げて、
揉んで考えて、切ったり貼ったり繋げたりする、
思考そのものを楽しくしていると思う。
もちろん、他の「書くこと」の本質もあると思う。
だけど僕が書くことが楽しくて、
その本質であると思うことが、
薙刀式の本質的な楽しさになってると思う。
なので、
薙刀式で書くと楽しい、
喜びがある、
などという感想は、僕は正しいと思うし、
ああ、書くことの喜びを伝えられて良かったなあと思う。
これを一旦理解すると、
いかにqwertyが書くことの楽しさを邪魔している、
意地悪ババアか分かる。
あんなに難しい飛び回る運指を強要して、
労力の割に全く進まなく、
間違えたら怒られる度合いが高く、
リカバリーが難しい、
書くことの喜びに到達する前に、
心を折りに来ている道具だ。
書くことはもっとスムーズに、
もっと速く、
もっと繋がる行為であるべきだ。
薙刀式はそれができる。
qwertyだと思考が指に分断されていたことが、
薙刀式を使えるようになると、
理解できるかもしれない。
感覚を言葉にするのは難しい。
スポーツ選手が自分の感覚を言葉にするのが難しいのと似ているね。
薙刀式は、
指の繋がりが思考の繋がりと同期して、
思考の繋がりが指と同期する。
そこが楽しい配列だと僕は思う。
そういう意味で、指が消えるんだよね。
思考の繋がりがそのまま文で出てくる体験を、
薙刀式ならできる。
僕はそれは手書きで出来る。
出来ない人の方が多いと思う。
でもそれが、書くことの楽しさなのよね。
手書きや作文が苦手で、
手に思考を寸断されてる人がいたら、
薙刀式の滑らかさを体験されたい。
それは、
競技的な価値観からは永久に出てこないだろう。
書くことは競技とは違うからだ。
むしろ、
どんだけ楽しかったかコンテストなんだよ。
そっちに参加した方が楽しくない?
2024年08月08日
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