2024年08月20日

なぜマクドナルドのAI CMが不気味で炎上するのか

ポテト250円の縦型CMがAI生成で、
大炎上中だ。

表面的には不気味の谷を越えられてないからなんだろうが、
問題はもっと根深いところにあると考える。
「ムービーを動く看板程度に見ている見識の浅さ」
こそが不気味の正体だと思う。


togetterに興味深い意見がある。
(件のCMもここで見れる)
https://togetter.com/li/2420978

> AIでPV作れないか、という話が数方向から来ているけど、一応映像をかじった身からすると「映像から意図が汲み取れない、非連続性の悪夢を見せ続けられるようなものしか作れない」って思っている
> 思っていたら、実際にCMとしてそれなりにお金をかけて作られたものが、やはり想像した通りのだった

> 話題のマクドナルドAI広告。AI否定派ではないですが、やっぱり不気味さ感じてしまうのは、人間は状況や構図・人物などから「映像の意図」を類推してしまう習性があるからかなと。意図に一貫性がないと気持ち悪く感じる。AIに限らないですが、AIでコスト削減しようとするとこの問題が起こりやすい

どちらも「意図を感じないから不気味」と言っている。
鋭い観察だ。


僕はもっと別の角度から見る。

「そもそもムービーとは一貫した意味のあるものをつくること、
という意識がない状態でムービーをつくったのでは?」
ということだ。

どういうことか。



仮にこれが実写ムービーだったとしよう。
アイドルグループでもない、
名もなきカワイイ子たちが、
いろんな場所でポテトを食べてる。
それでポテト250円の告知がある。

そんなCM、いいか?

看板ならわかるんだよ。
ある看板にカワイイ子がいて、
それなりのシチュエーションにいて、
ポテト250円って書いてあれば。

ただそれも「誰?」ってなる。
「誰?」ってならないために、
人気タレントを起用して、
「ああ○○が出てるね」という「意味」をつくる。

でもそれだけ。

つまり、
あるタレントが出ている「ポテト250円の看板」は、
「ポテト250円という意味」を伝えておらず、
「○○がマクドナルドの看板に出てる」
しか意味を伝えられていない。

つまりマクドナルド側から見たら、
情報量0だ。
それは僕らから見ても同じだ。

商品と値段が書いてある看板は、
それが欲しくない限りは情報量0だ。
むしろ景観を壊すので邪魔まである。

つまり、
「カワイイ子がポテトを食ってて250円と書いてある看板」は、
広告としてレベルが低いのだ。


ふつうこういう時は、
「250円で買えるもの」を並べて、
ポテトが一番価値があるよね、と言う風に見せたり、
500円玉で2個買えることを示したり、
250にちなんだ何かをやったり
(スクワット250回チャレンジとか)、
何かしら「250円でポテトが買える」
という意味を覚えやすくする工夫がある。

これを「企画」と称する。

つまりこの看板には企画性がない。
どの時代にもある、平凡な看板なのだ。


その、平凡な看板がただ羅列されてるだけのムービーが、
今回のものである。

平凡な看板たちは順番に意味がない。
アレの次にコレが来ると意味があるのが、
クレショフのモンタージュ実験以降考えられてきた、
「時間軸のあるものの効果」である。
それを無視して、ランダムで並んでいるだけだ。

ためしに2カット目と5カット目を入れ替えて意味が変わるか?
変わらないよね。
じゃあランダムに並んでるだけだ。

平凡な上に意味がない。

このことに、我々は耐えられないのだ。


看板であれば、無意味でも平凡で済んだろう。

これがムービーになった瞬間、
「連続性に意味があるものを求められる」
ことを、
担当者各位は知らなかったものと思われる。


AIがつくるストリップ
(ムービーとあえて言わない)は、
表現意図がない。
ランダムなものを、ランダムな(多少自然な)動作にするだけである。
それを繋いでも、
無意味の連続にしかならない。

興味深いことに、
往年のコカコーラCMが、
こうしたAI的に見える、というツイートを見かけた。
https://x.com/t_kotobuki/status/1825415498361938242

80年代の言葉を借りて言えば、
これはMV的CMだ。

当時MVが爆発的に流行り、
かっこいい絵を音に合わせてコラージュすることが流行った。
意味の連続性はいらない、
ただコラージュとして出来が良ければ良い、
という流行だった。

今でもMVはこの傾向があり、
逆に連続性に意味があるもの=ストーリーのあるMVは、
滅多にないだろう。

なぜMVが流行ったのかを考えると、
「意味のある映像に飽きてたから」じゃないか。
そこに、「無意味という新しさ」を発見したから、
流行ったんじゃないか。

折しも当時は、無感動、無気力、無責任という、
三無主義が流行った。
意味のあることをやっても叶わないから、
無意味を楽しもうぜという虚無主義のようなものだ。
だから、確固たる構造を破壊する、
シュールや脱構築が流行ったのだ。

その文脈で見れば件のコカコーラは、
当時の流行スタイル、無意味のMVを、
カッコいい、美しいカットで埋めた、最新流行映像であった。


さて現代である。

無意味をつなぐことは、
少なくとも今は流行ってない。
40年周回遅れのシュールには、何も感じない。

むしろ、
しょうもないショート映像がちまたにあふれ、
騙されないようにソースを出せと言いたくなる、
インプレ目的のクソ映像が溢れている。

その中で「価値のある意味のある映像」こそが、
求められているのが現代だ。

80年代とは比べものにならない、
莫大に無意味な映像たちの中に、
こんな無意味な映像を放り込んでも、
何一つ目立たない。

そこにマクドナルド公式のハンコがつくことで、
「こいつ何もわかってねえな」
と我々は無意識に思うのよ。


エイプリルフールに、
各企業が面白嘘をつくのが一瞬流行りかけたけど、
すぐに廃れた。
なぜなら、面白い嘘をつかなければならない文脈で、
企業のつける嘘には限界があるからだ。

マクドナルドが「うんこをポテトにします」なんて嘘をついたら、
僕個人の発言ならば「またバカが」で済むけれど、
企業ではそうはいかない。
だから、「当たり障りのない嘘」になってしまい、
嘘放題のネット界隈から見て、
中途半端に見えてしまう。
制限付きの楽しさは、制限なしの楽しさよりつまらなく、
冷めるんだよね。

そういう意味で、
「わかってる企業かどうか」が、
現代は問われてるのではないかと思う。


ムービーとは意味のある連なりで、
ある意味を語るもの。
それは価値のあるもので、嘘のないもの。

無意味で平凡な看板や、
ネットにあふれるクソ動画よりも、
よほど価値のあるもの。

そのようになってないことが、
炎上の真の原因だと僕は思う。


つまり、
安い制作費で、流行りに乗っかったわりには、
たいして面白くもない「無意味」を見せられて、
僕らは腹が立っているのだ。
「分かってねえなマクドナルド」
ってのが、僕らの総意なんだよね。


かつて100円バーガーをやって、
日本人に愛されたマクドナルドは今はない。
メニュー廃止したあたりから、
なんだかおかしくなってきた。
外資の社長がまだいるんだっけ?
日本のハイコンテクストとはずれてるんだろう。



(追記)
「つくってみた」人も何人かいるが、
これが出来が良かった。クリエイターの民主制か。
https://x.com/8co28/status/1825776666561724420

そしてこの人の感想。
まあ大体同じことを言っている。
> 結局、実写であれアニメであれ「AIで無作為に作った動画素材複数」を「ただ並べるだけ」は"カラオケで専用ムービーがない汎用動画"みたいな感じになっちゃってチープに見えるんだよな。だから統一感なりストーリーなり固定キャラなりを用意する必要がある。

我々は映像を食ってるのではない。
意味を食ってるのだ。
posted by おおおかとしひこ at 13:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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