ふと、テレビドラマ畑の人たちの映画への流入が関係しているのでは、
と思った。
なぜならば、
ドラマは映画のようなイコンを持たないものが多いからだと。
ドラマはイコンを持たない、というのは大げさだけど、
シリーズを通してセンタークエスチョンがあったり、
大きな問題を解決するものがあるほうがまれだと思う。
どちらかといえば、
毎回出るキャスト押しのものであり、
毎回その人たちに会いに行く、
レギュラー的な感覚のものが多いと思う。
古くは寺内貫太郎一家のように、
レギュラーが勢ぞろいしているワンビジュアルが、
イコンになるのではないだろうか。
これはまだ縁側や門の前で、
「一家」が勢ぞろいする、というビジュアルだけど、
勢ぞろいして撮るシチュエーションのないドラマだと、
別撮りしたものをコラージュする、
ブロッコリーになりやすいんじゃないかな。
映画のポスターはイコンであるべきだ。
つまり、
問題や事件やテーマを、
ワンビジュアルで示せるものであるべきだ。
もちろん、
そのように作られていないものは、
そのようなビジュアルにつくれない。
テレビからの流入組が、
そもそもイコンをつくらないようなものをつくって、
イコンのないもの、
ワンビジュアルを持たないものが増えて、
映画の内容もブロッコリー化していったのではないかな。
たとえば「踊る大捜査線」をワンビジュアルに出来るかな?
どう考えても湾岸署の面々が、
湾岸署の前でせいぞろいして、
思い思いのポーズを決めているものが適しているような気がする。
映画版「踊る大捜査線」のワンビジュアルはどこ?
「事件は会議室で起こってるんじゃない、
現場で起こっているんだ!」
の、青島が無線で文句を言うカットだろう。
僕はここがワンビジュアルになるべきだとは思うが、
ビジュアル自体は普通なので、
イコンとしてはどうかな、とは思う。
この名台詞は後世に残る名セリフだけど、
それをいうのに、せっかくのイコンになるほどの撮影をしていない。
なんという勿体なさよ。
ちなみに映画版のポスターは、
予想通り、5人の刑事が銃を構えている、
勢ぞろいタイプのものであった。
やはり映画を象徴する名セリフの場面が、
イコンになるべきだよね。
この映画版も、
「ドラマ版のレギュラーたちが、
映画版にふさわしい大事件を解決する」
というものだから、
事件のイコンとブロッコリーを絡ませないと、
成立しないポスターだったろう。
企画からしてイコンを持たないわけだね。
映画はそれ自体が一枚絵になるべきだ。
事件、テーマ、物語性、ジャンル、
などが混然一体となって、名画になるとよい。
それに成功していないものは、
なんだか記憶がぼんやりして、
名作扱いされないと思うんだよな。
その当時はもてはやされても、
後世に知らない人が見たくなるようなデザインをしているかな?
それはビジュアルとして立ってて、
かつテーマ性を暗示して、
見て見たいと思わせるものであるべきで、
それは正しくポスターの機能だと思うんだよな。
ハイコンテクストすぎる興行上の理由
(人気芸能人がこれだけそろってますよ、
おなじみのメンバーのやつですよなど)
によって、イコン=本質が歪められらてるのは、
映画にとってよくないことだと思う。
2024年12月03日
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