2024年12月03日

ブロッコリーポスターが増えた理由

ふと、テレビドラマ畑の人たちの映画への流入が関係しているのでは、
と思った。

なぜならば、
ドラマは映画のようなイコンを持たないものが多いからだと。


ドラマはイコンを持たない、というのは大げさだけど、
シリーズを通してセンタークエスチョンがあったり、
大きな問題を解決するものがあるほうがまれだと思う。

どちらかといえば、
毎回出るキャスト押しのものであり、
毎回その人たちに会いに行く、
レギュラー的な感覚のものが多いと思う。

古くは寺内貫太郎一家のように、
レギュラーが勢ぞろいしているワンビジュアルが、
イコンになるのではないだろうか。

これはまだ縁側や門の前で、
「一家」が勢ぞろいする、というビジュアルだけど、
勢ぞろいして撮るシチュエーションのないドラマだと、
別撮りしたものをコラージュする、
ブロッコリーになりやすいんじゃないかな。


映画のポスターはイコンであるべきだ。
つまり、
問題や事件やテーマを、
ワンビジュアルで示せるものであるべきだ。
もちろん、
そのように作られていないものは、
そのようなビジュアルにつくれない。

テレビからの流入組が、
そもそもイコンをつくらないようなものをつくって、
イコンのないもの、
ワンビジュアルを持たないものが増えて、
映画の内容もブロッコリー化していったのではないかな。

たとえば「踊る大捜査線」をワンビジュアルに出来るかな?
どう考えても湾岸署の面々が、
湾岸署の前でせいぞろいして、
思い思いのポーズを決めているものが適しているような気がする。

映画版「踊る大捜査線」のワンビジュアルはどこ?
「事件は会議室で起こってるんじゃない、
現場で起こっているんだ!」
の、青島が無線で文句を言うカットだろう。
僕はここがワンビジュアルになるべきだとは思うが、
ビジュアル自体は普通なので、
イコンとしてはどうかな、とは思う。

この名台詞は後世に残る名セリフだけど、
それをいうのに、せっかくのイコンになるほどの撮影をしていない。
なんという勿体なさよ。

ちなみに映画版のポスターは、
予想通り、5人の刑事が銃を構えている、
勢ぞろいタイプのものであった。
やはり映画を象徴する名セリフの場面が、
イコンになるべきだよね。

この映画版も、
「ドラマ版のレギュラーたちが、
映画版にふさわしい大事件を解決する」
というものだから、
事件のイコンとブロッコリーを絡ませないと、
成立しないポスターだったろう。
企画からしてイコンを持たないわけだね。



映画はそれ自体が一枚絵になるべきだ。
事件、テーマ、物語性、ジャンル、
などが混然一体となって、名画になるとよい。

それに成功していないものは、
なんだか記憶がぼんやりして、
名作扱いされないと思うんだよな。

その当時はもてはやされても、
後世に知らない人が見たくなるようなデザインをしているかな?

それはビジュアルとして立ってて、
かつテーマ性を暗示して、
見て見たいと思わせるものであるべきで、
それは正しくポスターの機能だと思うんだよな。

ハイコンテクストすぎる興行上の理由
(人気芸能人がこれだけそろってますよ、
おなじみのメンバーのやつですよなど)
によって、イコン=本質が歪められらてるのは、
映画にとってよくないことだと思う。
posted by おおおかとしひこ at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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