2024年12月04日

読解力

あるものをそのように読み、
そうは書いてないことを誤読せず、
言外の意味は読み取る。

しかし100%そう行くわけではない。

Twitterから。
> 創作というのはたとえば100人に「ごんぎつね」を読んでもらったら
>
> 70人は「かわいそう」と言い
> 20人は「自業自得」と言い
> 9人は「意味がわからない」と言い
> 1人が「つまりごんは兵十の母親だったんですね」
>
> と言い出すのを折り込み済みでいた方がいい。
https://x.com/yohsuken/status/1826265124271018457


昔いろんな言葉を書いた絵葉書
(こういうのポストカードっていうんだっけ)の、
専門店が自由が丘にあった。
オシャレな絵柄、可愛い絵柄などに、
一言添えてあるやつ。

「あなたにぴったりの言葉を見つけましょう」
なんてPOPが貼られていて、
僕は首をひねったのだ。
「言いたいことがあるならそれを書けば?」
と。

だが僕が「書ける人」だと分かってきて、
「ほとんどの人は、自分の言いたいことを言葉に書けない」
ことに気づいてきた。

もちろん僕も100%書けるわけじゃない。
いつもギリギリで悩んでいる。
しかしもっと前の段階、
「そもそも何をいうか」で、悩み、
書けない人が沢山いるんだな、
ということに気づいた。

そのポストカード専門店は、
ネットの発達と期を同じくして閉店した。
同じ機能はラインスタンプにもあるから、
まあそれで事足りるわけだ。

あるいは、J-POPなどで、
「自分の言葉にならない精妙な気持ちが、
まさにここに書いてある」と、
それを好きになるらしい。
他人の言葉ではなく、
自分の言葉を探しているのだと。


つまり何が言いたいかというと、
物語をそのように捉える人もいる、
ということ。

他人と他人の物語を、
他人の世界として自分が見るのではなく、
「自分の気持ちがそこに書いてあるかを見つける」
ように、
見る人もいる、ということだ。

そしてそれを見つけたら、
「ホラこれは○○の物語なのだ!」
と言う人、というわけだね。

まあ確かにそれは書いてはあるが、
それは本質的な部分ではなく瑣末の部分なのだが、
そこに飛びついちゃう人が、
一定数いるということ。

言葉尻だけでもそうだよね。
ハゲに激しくコンプレックスを抱いてる人は、
髪の話をするだけで傷つき、
差別だと怒るのと似ている。
「自分の気持ちを他人の言葉の中に見つける」と、
そのようになりがち。

つまり投影である。

解釈ではなく、投影する人が、
おかしなことを言い、解釈できていない。


それは、
「自分の気持ちは正しかったのだ!」と、
他人に認めてほしい気持ちがそうさせているのかもしれない。
だって自分の言葉が不自由なのだから。
自分のこの気持ちは○○というのだ、
そしてこの作者は私の○○を肯定した!
となるのだろう。

陰謀論とかまさにそうよね。
違和感やなんか嫌だなーという気持ちが、
「それは陰謀だったのだ!」って説明されるからね。
陰謀論にどっぷり浸る人って、
言葉が不自由な人が多いと思うのは偏見だろうか。
サヨク活動家やネトウヨもそんな気がする。
あるいは新興宗教信奉者もか。

自分のアウトプットが出来ない人は、
他人の言葉を借りることしかできない。
だから絶対他力の一員になることで安心しがちなわけだ。


と、いうわけで、
他人の解釈がさまざまなのはとてもいいことだけど、
まずその本質を読み取った上で、
個人の事情を相対的に分かった上で、
解釈、鑑賞するべきだとは思う。

しかし、それが出来ない人も一定数いて、
そういう人がポストカード専門店に来る。

ごんぎつねってどんな話か全く覚えてないんだけど、
感想が割れるのは当然だと思うと気が楽になる。

そして、一定数の人には本質が伝わり
(半数以下を覚悟せよ)、
一定数の人は、自分に引きつけすぎて感想を言う、
という、
群衆の感覚を知っておくことだ。


あなたの表現は100%通らない。

ほぼ100%通じた一部の人と、
自分が拾いたい所しか拾わない、
たくさんの人に解釈され、反応される。

そしてSNSという攻撃力を得た人たちが、
反応して攻撃できるような世の中になってるだけだ。

ポストカード専門店と、たいして変わらんのだ。
そこに攻撃できるハガキがあれば、
人はそれを買って送っただろうし。


読解力は皆同じではない。
それを国語の時間に知ったはずだ。

僕は国語上位者だったので、
平均者や下位者の気持ちや発想はいまいちわからなかった。
でも、今はなき自由が丘のポストカード専門店を思い出して、
この需要について考えることにしている。

国語下位者がことばの創作をすることはないだろう。
平均者以上がやるのだろう。

つねにバラバラなことを意識しよう。
だから、創作物はわかりやすいほうが強い。

読解力がある人だけが分かるような、
しょうもない暗号なんかいらない。

老いも若きも男も女も、
みんなが理解できる文章が、
創作として一番いいのだ。


まあ、みんな、本読め。
僕は本をほとんど読まなくてこうなった。
なんでだ。漫画や映画だけでこうならんやろ。
新聞を読む高校生だったからかなあ。
「日本語だけの文章」を沢山読むと、
それの一部が自分の言葉になるよ。
ことばだけで考える脳の回路にスイッチが入る。

いや、アウトプットが昔から膨大だったからかも。
漫画をずっと書いてたことが、
結果言葉をたくさん使えるようになったのかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 08:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック