なぜ若者のシナリオは、半径3mから出ないのか。
たまたま日テレシナリオコンテストを見て、
そのあらすじだけを読んだのだが、
どれもスケールの小さな範囲の話であった。
https://www.ntv.co.jp/writers/
コンビニ店員と絵の話。
バンドと記憶の話。
役者と絵師の話。
バンドと絵という、
「クリエイティブなもの」ばかりなのが気になった。
これは半径3mと対比できる。
ほんとはスケールの大きな話が書きたい。
だけど書けない。
だから「クリエイティブなもの」に、
スケールを託すのだと。
スケールは夢といってもよい。
夢は大きな方がいい。
だから、小さなここから飛び出す、
世界に開いた無限のように見えるものに、
託すことでスケールを担保する。
アウターワールドの狭さを、
インナーワールドの広さでカバーしようとする。
その意味で三本とも同じなのが気になった。
時代劇にすることで、
スケールを大きくできるのはなぜか。
「世界の変動」を、うまく使えるからだ。
法律が変わったり戦が起こったり、
なんなら支配者が変わることもある。
現代を舞台にした場合、そういうことは難しい。
それくらい現代日本は、
「どうあがいても個人の力じゃびくともしない」
世界になってる気がする。
投票率の少なさはその無意識の現れであろう。
どんなに東京五輪に反対したって、
上級国民がやる既定事実で、何一つ我々はできなかったわけだし。
だから若者がどうにか出来るのは、
半径3mの範囲になってしまう。
そこにしか自由がない。
行き詰まりを感じる。
たとえば「世界の変動」を大きくとっても良いではないか。
気候変動を逆手にとって、
「夏が40℃を毎日超える世界」を舞台にした、
なんらかのSFを作ってもいいじゃないか。
全員水着OKになった世界とかさ。
台湾戦争に参戦することになった日本から、
徴兵される若者の話を書いてもいいじゃないか。
そうでなくても、
遠距離の話でもいいじゃないか。
東京と大阪とか、小樽と福岡とかの、
ネットで知り合った若者たちが、でもいいと思うんだよ。
タワマンの上下を逆手にとって、
最上階の女子と最下階の男子のラブストーリーでもいいじゃんか。
中国のSF「三体」が流行ったのは、
世界の行き詰まりと関係してるかもしれない。
もちろん、映像化可能な、予算の範囲を意識してるのもあろう。
あるいは昨今の低予算のドラマしか見てないから、
その真似しかできない縮小再生産もあろう。
じゃあネトフリにも同じ企画出すのかよって話だよね。
いや、本文を読まずに、
あらすじだけ見た感想だから、
本文ではすごいスケール感なのかも知れない。
でもスケール感が絵や音楽に頼ってる気がする。
それってドラマの大きさじゃないものね。
(大賞に至っては自殺でスケールを大きくしただけだし)
なんで若者はこぢんまりしてるのか。
世界が固定してしまったから。
今の世界にアクセスして自分で変えられる可能性がないから。
だからクリエイティブな世界に可能性を感じてしまう。
結構日本ヤバイ。
世界がインターネットで繋がったというのに、
パーソナルスペースはどんどん小さくなってゆく。
あらすじだけで本文を読む気が失せた。
あらすじは、これだけ大事なものなのだ。
本編がこのあらすじのままなら詰まらない。
本文読んで「これはあらすじ全然超えてた!」
と思うのがあったら教えて。
2024年08月23日
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