2024年08月23日

日本の行き詰まりを強く感じる

なぜ若者のシナリオは、半径3mから出ないのか。

たまたま日テレシナリオコンテストを見て、
そのあらすじだけを読んだのだが、
どれもスケールの小さな範囲の話であった。
https://www.ntv.co.jp/writers/


コンビニ店員と絵の話。
バンドと記憶の話。
役者と絵師の話。

バンドと絵という、
「クリエイティブなもの」ばかりなのが気になった。
これは半径3mと対比できる。

ほんとはスケールの大きな話が書きたい。
だけど書けない。
だから「クリエイティブなもの」に、
スケールを託すのだと。

スケールは夢といってもよい。
夢は大きな方がいい。
だから、小さなここから飛び出す、
世界に開いた無限のように見えるものに、
託すことでスケールを担保する。
アウターワールドの狭さを、
インナーワールドの広さでカバーしようとする。

その意味で三本とも同じなのが気になった。


時代劇にすることで、
スケールを大きくできるのはなぜか。

「世界の変動」を、うまく使えるからだ。
法律が変わったり戦が起こったり、
なんなら支配者が変わることもある。

現代を舞台にした場合、そういうことは難しい。
それくらい現代日本は、
「どうあがいても個人の力じゃびくともしない」
世界になってる気がする。
投票率の少なさはその無意識の現れであろう。

どんなに東京五輪に反対したって、
上級国民がやる既定事実で、何一つ我々はできなかったわけだし。

だから若者がどうにか出来るのは、
半径3mの範囲になってしまう。
そこにしか自由がない。

行き詰まりを感じる。


たとえば「世界の変動」を大きくとっても良いではないか。

気候変動を逆手にとって、
「夏が40℃を毎日超える世界」を舞台にした、
なんらかのSFを作ってもいいじゃないか。
全員水着OKになった世界とかさ。

台湾戦争に参戦することになった日本から、
徴兵される若者の話を書いてもいいじゃないか。

そうでなくても、
遠距離の話でもいいじゃないか。
東京と大阪とか、小樽と福岡とかの、
ネットで知り合った若者たちが、でもいいと思うんだよ。

タワマンの上下を逆手にとって、
最上階の女子と最下階の男子のラブストーリーでもいいじゃんか。

中国のSF「三体」が流行ったのは、
世界の行き詰まりと関係してるかもしれない。



もちろん、映像化可能な、予算の範囲を意識してるのもあろう。
あるいは昨今の低予算のドラマしか見てないから、
その真似しかできない縮小再生産もあろう。
じゃあネトフリにも同じ企画出すのかよって話だよね。


いや、本文を読まずに、
あらすじだけ見た感想だから、
本文ではすごいスケール感なのかも知れない。

でもスケール感が絵や音楽に頼ってる気がする。
それってドラマの大きさじゃないものね。
(大賞に至っては自殺でスケールを大きくしただけだし)



なんで若者はこぢんまりしてるのか。
世界が固定してしまったから。
今の世界にアクセスして自分で変えられる可能性がないから。
だからクリエイティブな世界に可能性を感じてしまう。
結構日本ヤバイ。
世界がインターネットで繋がったというのに、
パーソナルスペースはどんどん小さくなってゆく。


あらすじだけで本文を読む気が失せた。
あらすじは、これだけ大事なものなのだ。
本編がこのあらすじのままなら詰まらない。
本文読んで「これはあらすじ全然超えてた!」
と思うのがあったら教えて。
posted by おおおかとしひこ at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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