コアアイデアを絵というイコンにするときに、
どうしても避けられない問題がある。
それは、
「動詞は絵にしにくい」ということだ。
僕は、
ストーリーというものは動詞で記述するべきだと考えている。
ログラインも動詞ひとつで示せるべきだと考えているし、
動作、行動こそがストーリーであると考える。
だが、
写真の法則として、
「動詞は絵にしにくい」のである。
たとえば「走る」は絵に出来る。
しかし、「行く」は絵に出来ない。
走る写真は撮れるが、「〇〇へ行く」は無理だ。
「着いた」「行くぞ」までは撮れるが、
その全行程を一枚の写真に収めることはできない。
「進む」はまあ撮れる。
歩くか走るかするとよい。
「取る」は? 目的のものと手を伸ばす写真にはなるだろう。
「財宝を求める」という話では、
そういうビジュアルが多いよね。
「倒す」も難しい。
「対決する」は「対峙する二人」で示すことが可能だけど、
「倒す」は無理だ。
倒す前か、倒したあとしか写真に撮れない。
「別れる」は?
異なる方向に向かう二人で撮れる。
しかし映画のポスター上、
二人の顔を見たくなるから、
別々の方向に分かれて、かつ顔を見れるのは、
横顔しかない。
これは対決も同じだね。
そうじゃない場合、分割画面にするしかない。
(ここが発展してブロッコリーになってしまうわけだ)
「復活する」は?
難しい。
棺から蘇るバンパイアならまだしも、
一度成績が落ち込んだ営業マンが、
復活する絵は難しい。
復活する前を描くと分からなくなるから、
復活した、活躍し終えた絵で示すしかないだろう。
さて。
なんとなくわかって来ただろうか。
動詞というのは、
前と後の「間」にあるものだ。
ビフォー/アフターをつなぐものが動詞になるわけだ。
変化というのはそういうことだ。
ビフォーとアフターが同じならば変化はなく、
動詞は存在しないことになる。
写真は前か、途中か、後しか撮れない。
一枚絵のイコンはつまり、
ビフォーか、途中か、アフターしか、
写真の種類がないことになる。
「殴る」なら途中が一番よさそうだ。
前でもあり得るが、殴ったかどうかは分からない。
じゃあ後もあるかな。
殴り終えた誰かと、倒れた誰か、
という絵をつくることは可能だろう。
途中を省略して、
後だけでその途中を想像させるやり方がある。
乱れたベッドだけで、
昨日はお楽しみでしたね、
と分かる表現だね。
これは高度な表現であり、
だから写真としてのアイデアに昇華することはとても難しい。
「別れた」ということを示すために、
いつも座っていた椅子にいない、
みたいな表現をすることだからね。
動詞を写真に表現することは、
だからとても難しい。
だから、コアアイデアのイコンは、
ビフォーかアフターの絵になってしまう。
途中を示す写真はめったにないだろう。
だから、
映画のポスターは、
設定を示すビフォーの絵、つまり、
主役たちが勢ぞろいしたブロッコリーになってしまう。
それは、
動詞をどのように表現するのか、
写真表現にまで落ちていない拙劣さなのだ。
しかし、その物語がどのような動詞かによるよね。
「別れる」のように、
二人の顔を両方見れないことになるかもしれない。
そもそも二人が話している絵だって、
ハノ字になって嘘をつくのが、
映像という表現であった。
コアアイデアをイコンにしよう。
ビフォーだろうか?
途中だろうか?
アフターだろうか?
動詞はイコンになりにくい。
しかしそれをうまくイコンに出来たとき、
名ポスターが生まれると思う。
そしてそれが、コアアイデアになるだろう。
2024年12月02日
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