2024年12月02日

コアアイデアと動詞

コアアイデアを絵というイコンにするときに、
どうしても避けられない問題がある。
それは、
「動詞は絵にしにくい」ということだ。


僕は、
ストーリーというものは動詞で記述するべきだと考えている。
ログラインも動詞ひとつで示せるべきだと考えているし、
動作、行動こそがストーリーであると考える。

だが、
写真の法則として、
「動詞は絵にしにくい」のである。

たとえば「走る」は絵に出来る。
しかし、「行く」は絵に出来ない。
走る写真は撮れるが、「〇〇へ行く」は無理だ。
「着いた」「行くぞ」までは撮れるが、
その全行程を一枚の写真に収めることはできない。
「進む」はまあ撮れる。
歩くか走るかするとよい。

「取る」は? 目的のものと手を伸ばす写真にはなるだろう。
「財宝を求める」という話では、
そういうビジュアルが多いよね。

「倒す」も難しい。
「対決する」は「対峙する二人」で示すことが可能だけど、
「倒す」は無理だ。
倒す前か、倒したあとしか写真に撮れない。

「別れる」は?
異なる方向に向かう二人で撮れる。
しかし映画のポスター上、
二人の顔を見たくなるから、
別々の方向に分かれて、かつ顔を見れるのは、
横顔しかない。
これは対決も同じだね。
そうじゃない場合、分割画面にするしかない。
(ここが発展してブロッコリーになってしまうわけだ)

「復活する」は?
難しい。
棺から蘇るバンパイアならまだしも、
一度成績が落ち込んだ営業マンが、
復活する絵は難しい。
復活する前を描くと分からなくなるから、
復活した、活躍し終えた絵で示すしかないだろう。



さて。
なんとなくわかって来ただろうか。
動詞というのは、
前と後の「間」にあるものだ。

ビフォー/アフターをつなぐものが動詞になるわけだ。

変化というのはそういうことだ。
ビフォーとアフターが同じならば変化はなく、
動詞は存在しないことになる。

写真は前か、途中か、後しか撮れない。
一枚絵のイコンはつまり、
ビフォーか、途中か、アフターしか、
写真の種類がないことになる。

「殴る」なら途中が一番よさそうだ。
前でもあり得るが、殴ったかどうかは分からない。
じゃあ後もあるかな。
殴り終えた誰かと、倒れた誰か、
という絵をつくることは可能だろう。


途中を省略して、
後だけでその途中を想像させるやり方がある。
乱れたベッドだけで、
昨日はお楽しみでしたね、
と分かる表現だね。

これは高度な表現であり、
だから写真としてのアイデアに昇華することはとても難しい。
「別れた」ということを示すために、
いつも座っていた椅子にいない、
みたいな表現をすることだからね。

動詞を写真に表現することは、
だからとても難しい。

だから、コアアイデアのイコンは、
ビフォーかアフターの絵になってしまう。
途中を示す写真はめったにないだろう。


だから、
映画のポスターは、
設定を示すビフォーの絵、つまり、
主役たちが勢ぞろいしたブロッコリーになってしまう。
それは、
動詞をどのように表現するのか、
写真表現にまで落ちていない拙劣さなのだ。

しかし、その物語がどのような動詞かによるよね。
「別れる」のように、
二人の顔を両方見れないことになるかもしれない。
そもそも二人が話している絵だって、
ハノ字になって嘘をつくのが、
映像という表現であった。



コアアイデアをイコンにしよう。
ビフォーだろうか?
途中だろうか?
アフターだろうか?

動詞はイコンになりにくい。
しかしそれをうまくイコンに出来たとき、
名ポスターが生まれると思う。

そしてそれが、コアアイデアになるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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