作者の「世界はこのようなものである」、
という無意識(ないし計画的なもの)
が物語の枠を決めている。
たとえば、
「悪はなんでもやってよい」
「悪はバレなければよい」
「身内だけに親切にするが、あとは悪」
「全員善人で、みんなに親切にするべき」
など、
世界をどうとらえるかは、
自由に決めてよい。
そして、それが貫かれていれば、
それがその物語の世界の枠組になる。
昔は善意だけの社会を描くもの、
とされていたが、
昨今は悪も悪として描き、
ダークファンタジーのように悪辣な世界でのサバイバルを描くものもある。
善意だけの社会があったのは、
仏教説話や先祖の話をする神道の影響だろう。
人は宗教によって善人になってきた。
しかしそれが通用しなくなりつつある現代では、
ダークな世界観を使うものが増えた、
という見方もあるかもね。
まあ、どちらでもよい。
善意だけの社会はフィクションによくあるから、
ダークなもののほうがリアルだ、
というのがここ10年かそれ以上の流れではあるが、
一方善意だけのほうがほっとする、
みたいな流れもある。
どちらにせよ、一貫性があれば、
それはそういう世界だ、
ということになる。
問題は、それを途中で変えてしまうことだ。
無意識に世界観を変えてしまうのは、
作者がそれに疲れたからとか、
気分で書いているときだろう。
「世界はそういうものだ」というのは、
基本的な枠組みになるから、
それを変えたら土台が揺れることになる。
で、世界がどのようなものであるかを決めたうえで、
登場人物が、それをどのように思っているかを決める。
善人社会がベースのときに、
田舎から出てきた善人、
悪はなんでもありのクルド人、
身内だけにやさしい中国人、
などを出すとわかりやすい対立になるわけだ。
対立こそが物語のエンジンになるのであった。
で、最後に勝利した人の考えが、
結論だったりする。
他の登場人物たちは、主人公の思想に感化されて、変化する。
「なるほどそうか、私はそれに帰依します!」
と態度がまるで変わってしまう人から、
「まあ、いい所は取り入れるか」という人まで、
色々あると思う。
ほとんど宗教の話と同じだ。
世界はこのようになっている、
とどう考えるかは、宗教と同じだということだ。
逆に、宗教とは物語的なのだ。
物語を用いた何かが宗教だともいえる。
それを教会でやるか、
映画館で娯楽として使うかの違いなのかもだ。
だから、一貫していないものは、
世界が定まらず、ふわふわしていて安心しない。
前記事の、人間の危うい関係を描くには、
基盤がしっかりしていないと、
基盤も関係もふらふらしていたら何もかも分からなくなってしまうので、
しっかりした基盤の上で、安定なり不安定なりを描くべきだろう。
気をつけるべきは、
それが作者の無意識なのか、
意図的にそのように設計したものかの、
自覚を持つことだ。
無意識は説明できないので、
意外なツッコミに弱い。
設計はリアリティの構築が難しいが、
一旦出来上がれば強固な世界になる。
全部無意識、全部設計、ではなく、
半々になってることが多い。
ここまでは意図的に設計していたが、
案外こんなところで無意識が出るんだなあ、
ということに気づけるといいね。
「育ちが出る」とはそのようなことだ。
2024年12月07日
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