資料として読まなければならなかったので、
途中まで読んだ。
キメラアント編が「少年漫画としてのひとつの到達点」
とまで言われている理由を知りたいので、
そのオープニングが終わったあたりの現在地点(23巻)での感想。
現在ナックルに負けたところで中途半端なので、
キメラアント編より以前、
グリードアイランド編までを批評する。
正直、面白いポイントと、面白くないポイントが混在していて、
純度100%の面白い漫画とは言えないと思った。
幽遊白書までは全部読んでいるが、
それの焼き直し以上に面白いポイントあったかなあ?
いや、幽遊が作家としての富樫の完成品なのだ、
それを維持していくだけでよいのだ、
というならば、
ハンターハンターは「続きの幽遊白書」ということで、
いいんじゃないかとは思う。
ただ、「設定の量に対して使っているのが一部」、
という感覚がなんか違和感がある。
ヨークシンシティのオークションと幻影旅団の話は、
長すぎたように思われる。
念を修得してからのファースト冒険編なのだから、
もう少し簡単な話でよかったのではと思うね。
「ある話を語るのに、設定しすぎること」は、
映画脚本では戒めになる。
話に対して適切な量の設定が、
気持ちよいストーリーの情報量になる。
幻影旅団は設定だけして半分くらいしか使っていない
(あとあと使おうとしていたのだろうが)。
団長とヒソカの話はなくても成立する。
ストーリーラインが増えれば増えるほど、
話が複雑になって面白くなるのだが、
話が複雑になって長引く、
という欠点もある。
メインプロットはゲームを競り落とすことなのだが、
58億円というとんでもない額を稼ぐ?
無茶な!というお題に対しては、
幻影旅団の話がボリュームがあり過ぎて、
話がややこしくなっている感は否めない。
オークション編で幻影旅団をチョイだしにしておいて、
あらためてクラピカと幻影旅団編をやるべきだったのではと思う。
コミックスで読んだため、
休載のタイミングが分らないのでアレだけど、
読み手の時間軸よりも大きな量で書いている感じ。
「そんなにたくさん受け取れないので、
小分けにしてくれ」という箇所がたくさんあった。
考えすぎ、というやつだ。
それは次のグリードアイランド編でも同じくで、
カードバトルは正直何がおもしろいのかわからん、
という感じだったね。
「この道具を使ってどうする?」と考えるところが面白いはずなのに、
設定の開陳だけで終わってしまっているのが、
とても勿体なかった。
(まさかカードゲーム化して、一儲け考えていたのだろうか?
その為にいちゲームとして成立するだけの情報量があったのだろうか?)
将棋漫画で、駒の動き方や将棋の戦法の説明をいちいちするのだが、
漫画で描かれるのは一局の試合のみ、
という感じなのがとても消化不良だったね。
ひと試合のストーリーに必要な量だけを説明するべき、なのだが、
そのバランスが良くなかった。
ゲームを題材にした映画を見ればよくわかる。
最もよいのは「ハスラー」(2じゃなくて1の方)で、
冒頭に長く説明シーンがあるのだが、
ビリヤード(ナインボール)のルール説明じゃなくて、
「これは負けたふりをして掛け金を釣りあげ、
最後にかっぱぐゲームである」
ということだけが説明されるんだよね。
そして最後にそれを見事に決めることだけがカタルシスになる。
「白玉をついて、1番から順に入れてゆき、
最後に9番を落とした方が勝ち」
なんてルールの説明はないし、
それがなくても分るストーリーになっている。
いつが負けたふりなのか、
ということが焦点になっているからだ。
つまり、設定やルールに振り回されたストーリーになっている、
というのがオークション&幻影旅団編、
グリードアイランド編の感想だ。
まあ、映画と違って、
漫画は連載しながら考えるわけだから、
「考える材料が多いほどよい」というのは、
分らなくもない。安心材料になるからね。
ハンターハンターにおける、
容赦ない切り捨て現象が、
期待の斜め上として評価される向きもあるが、
僕は単に「今回これだけのいい材料を用意したのに、
使いきれなくて皿をひっくり返してしまった」
という感じを受ける。
なぜなら、
〇〇編の終わりから次には、
前の材料を使いまわさないからだ。
引っ張る、というよりは、
「あれは間違いだから捨てた」という感覚のほうが強いと思う。
グリードアイランド編では幻影旅団を使いこなせていないし、
キメラアント編でようやく再登場した
(包帯のやつとか仕込み杖のやつとか、
初めて設定が明らかになった)が、
困ったときに使いまわそう、という無意識があったことをそこに見る。
なので、幻影旅団は5人、などとしても問題なかったのでは、
とオークション編の長さからは思ってしまう。
もちろんこれはあとから見たバランス感覚なので、
連載中にそれに気付けたかは分らない。
だが構想段階で編集者が相談相手になり、
全体のバランスをコントロールするべきじゃないかね。
要素が多すぎるから、サクサク進めないよ、
ということまで考えるべきだった。
週刊連載をやるならば、
壮大な構想はラストバトルだけでよいはずだ。
中盤の〇〇編は、
ある程度小さな設定にしておいて、
あとで追加するほうがコントロールしやすいはずなのに。
さて、
これは表の批評である。
裏の批評に入る。
富樫の精神状態についてだ。
鬱ないし統合失調の気が強いので、
週刊連載はストップしたほうがいいとすら感じた。
天空闘技場編までは、
そんなに問題は表面化していなかったが、
幻影旅団登場あたりから怪しくなっている。
とくに団長の目が病んでいるのが顕著だった。
富樫はよく病んだ目の敵を出すことがある
(キルアも時々それがある)のだが、
大体その前後に病み始めるんだよね。
今回も団長の目を書き始めてから話が停滞して、
ゴンの明るさが登場しなくなるのが気になった。
(目に必要以上の恐怖を感じるのは統合失調の特徴。
そこまで病的じゃなかったとしても危険兆候だと思う)
休載リストがネットで出回っていたので見ると、
キメラアント編はさらに休載しているっぽいので、
なかなか難しいんだろうなあと思われる。
設定が膨大で、
いくらでも長くなりそうだなあと。
(これまでは5巻くらいで〇〇編を終わらせていたのに、
キメラアント編は12巻くらいある)
この間、病んだり回復したりしながらして描いていくのは、
相当しんどかったと思う。
病みを防ぐのはバランスキャラクターの存在だと思うんだよね。
幽遊白書では桑原が常識人の立場で、
だから5人のバランスが安定していた。
ハンターハンターではレオリオがそれにあたる。
レオリオの不在が、
常識人の不在、ふつうの思考の不在になり、
病んだ方向へのブレーキがなくなったのだと思われる。
念の存在が明らかになり、
レオリオとクラピカもそれをマスターした、
という段階で、
4人が集まり、旅をするべきだったんじゃないかと思う。
そうしたら、オークション編が念の披露と活躍の場になり、
たとえ病んだ敵が出てきたとしても、
「うっせえー!」的な桑原的なレオリオが、
常識のレベルで砕いていたと思うんだよね。
その光のあたらない、
じめじめしていた場所の長さが、
結構きついと思ったなあ。
レオリオって人気ないんだっけ。
でも必要なキャラクターだと思う。
キレンジャーのいない、
イケメンだけのゴレンジャーはバランスが取れない。
必ず崩壊すると思う。
キレンジャーがいることで、
「ふつうと特別の距離」が測れる。
ボケに対するツッコミになる。
その測定装置がないならば、
ずっと向こうに行きっぱなしなのか、
まだ全然行っていないのか、分らなくなるんだよね。
病みの原因のひとつは、
「今どこなのかわからなくなること」だと思う。
絶対的に安定している常識人が、
キャラクターの中に必要だ。
キメラアント編が始まって、
病んだ女パームの登場でいよいよヤバイなあと思った。
その前後が躁鬱っぽい感じになっているのもなあと。
黒く塗りつぶされた絵が出てきたら前兆なのだが、
下書きで発表されたジャンプ版をみると、
結構黒塗りの怪物が出てきているので、
これはヤバイなあと思っている次第。
中二の頃は「ちょっと病んだ自分が好き」
(特別感があるし)になるものだけど、
それも不安定の時期をすぎれば、
ただの振り子の揺れに過ぎなかったと分るものだ。
振り子のこっち側、レオリオで安定させるべきと思う。
ゴンじゃ足りないんだよね。
ゴンは理想の(=自分がなれない)キャラクターだから、
もっと庶民のキャラクターが欲しいところだ。
桑原がちょうどよかった。
レオリオは医者とかおしゃれとか、
庶民の感覚を背伸びしすぎたね。
カイトがそうした指導者的人格になるはずだったが、
それも空虚化したので、
まともな人格がいなくなったのがつらいところ。
(ジンは出てこない、ゴドー的な存在だろう)
おそらくカイトは元に戻らないだろう。
それが治ることは鬱の完治に近いと思う。
健全な精神が闇を追い払うのは、
創作では難しい、ということがよくわかる例だと思った。
このことを考えると、
「ベルセルク」はよく闇に持ってかれずに続いたと思う。
グリフィスの闇落ち以後、
グリフィスの人格が表に描かれなくなったのが、
せき止めてくれていたのかもしれない。
これを描き出すと、簡単に闇に落ちそうだからね。
なんだかんだいって、
鎖につながれたまま、なお上を見ていた気持ちが、
ベルセルクを繋ぎとめていたのだと思っている。
深淵をのぞき込まずに、
向こうからのぞき込まれないようにしたことが、
ベルセルクが続いた理由だ。
ハンターハンターは、わりと覗き込み過ぎている。
だから、
怖いもの見たさの中二に受けている部分もあると思う。
そんなことをしなくても、幽遊は桑原がおもしろいのに。
仙水とか樹とかどうでもいいよ。闇に覗かれるだけだ。
幻魔を倒す方法がわからなくて、
何度も何度も設定をリブートした、
平井和正の幻魔大戦を思いだす。
結局宗教の力を借りないと創作の降霊ができないほど、
人というのは弱いのだ。
宗教というのは、そうした面で、
人が暗黒面に落ちないようにとどめる力があるのかもしれないね。
物語としてはキメラアント編、その後を読んでから判断したい。
富樫を批評するのは疲れる。のぞき込まれないようにしないとな。
(追記)
ちょっと調べて、「ヨシりんでポン!」の話が出てきた。
幽遊白書の後半はかなりストレスに晒された鬱直前状態だったみたいだね。
その鬱憤ばらし?のために描いた同人誌だそう。
設定が「実は幽遊白書はテレビドラマだった。
その中の人たちが打ち上げで温泉に行く」というものだそうだ。
メタ構造といえばかっこいいが、
これって完全に離人症やん。
幽助は存在しなかった。役者の○○が演じた役でした、
飛影などいなかった、役者の○○の演技でした、
以下全キャラでそうなっている。
そもそも物語作者というものは、
人格を分裂させることが仕事だと思う。
それがうまく行かなくて、
「あれは私ではない」という激しい否定が、
離人症状を呈してる気がする。
あとは専門家に任せたいところだけど、
冨樫の精神状態は結構危なくて不安定だと思う。
(追記2)
そんなのみんな分かってて、腰痛のせいだということにして、
それも含めた「冨樫仕事しろ」なのだ、
というのならコッソリ教えてください。
ハイコンテクストなものは門外漢わからんので、
裸の王様みたいになってるのかもしれぬ。
2024年08月26日
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