我々がつくっているものは見世物である。
ぬるいやつよりも、必死でテンションが高いほうがおもしろい。
簡単にそれを実現させるのは、
命がかかっているようにすることだ。
これに失敗したら死ぬ。
相手はこっちを殺そうとしている。
死なないためには、相手を無力化ないし殺す必要がある。
殺すつもりはなかったんだ。
事故とはいえ殺意があった。
負けたほうが追放。
二度と表に顔を出せなくなる。
一族郎党皆殺し。村ごと焼き払う。
集落が全滅した。
何人死んだと思ってるんだ。
泣きながらスイッチを押す。
心臓がバクバクいいながら落ち着けと自分に言い聞かせる。
これで終わりなんだ。終わりにするんだ。
やっと……終わった……これで帰れる……
こんな風な感情が、
命がかかっている場合にはあるだろう。
それは、
ぬるい日常であることよりも、
緊急で、危険で、重大なことだろう。
だから、見世物になるのだ。
脚本には危険が重要であると言われる。
危険が迫らないと人は何も行動しないし、
(締め切りがないと人は仕事をしない)
危険がないとドキドキしないからだ。
どうせやるなら危険があるものにしたほうが、
危険のないものより面白くなるのだ。
その究極が、命がかかるということだ。
あなたの物語の主人公が、
ある目的のために行動したとする。
そして次の具体的な目的、
たとえばこのドアを開ければ、
鍵になる人物が待っているとしよう。
そこで単にドアを開けるのではなく、
急にロシアンルーレットで勝たないとだめ、
と設定したとする。
そこで急にハラハラドキドキするわけだ。
心拍数は上がり、テンションがあがるだろう。
なんでロシアンルーレットやねん、
というのは置いといて、
そういうことである。
失敗した死ぬ、
しかしどうしても俺はこのドアを開けなければならない。
やるしかない、
という流れになると、
話は面白くなるのだ。
究極の自分事になるわけだからね。
逆に、自分事にしろ、ということは、
リスクを負え、ということかもしれないね。
もちろん、急にロシアンルーレットが出てきたら、
なんでやねんとなるから、
ロシアンルーレットではない、
別の命のかかった何かを用意しろ、
ということを言っている。
それがロシアンルーレットより自然で、
面白ければよい、というだけのことだ。
思いついたそれが、
ロシアンルーレットよりつまらないなら、
多分ロシアンルーレットを採用したほうが、
話がおもしろくなるに違いない。
落ちたら死ぬ。
銃を向けられている。
銃が乱射されている中行くしかない。
転んだら大怪我。
3、2、1で二人が飛び出せば、相手は的を絞れないだろう。
これは訓練ではない。
こんな場面はハリウッドでは、
沢山あるに違いない。
命の価値は安い。
だから面白いのだ。
命を簡単に懸けて、
命が簡単に死んでいくから、
面白いのだ。
死ぬから、生きることに価値がある、
ように見えるわけだね。
逆にいうと、命を懸ける行為は、
安易に盛り上げる力になるということだ。
もしあなたのストーリーが、
ロシアンルーレットを導入することで急に面白くなるなら、
命を懸ける行為なみに、
命を懸けずに面白くできていない、
という証拠でもあるわけ。
安易に死ぬ生きるのほうが盛り上がるなら、
あなたはストーリーを練りこんでいない、
というチェックになるわけ。
だからといって、死ぬ生きるを禁じ手にする必要はない。
劇薬だと分って、適量使えばいいだけのこと。
一時期、難病ものが流行ったのは、
簡単に死ぬ生きるを出来て、
アクションとかの金のかかることをしなくてよかったからだ。
別に死の宣告を受けたから、
今からF1レーサーになる、という話でもいいんだけど、
金をかけないという前提と逆だから、
なかっただけのこと。
僕はクライマックスがじゃんけんでも面白くなるように、
その前のつくりを作ってこい、
ということをよく言う。
そのじゃんけんで負けたら死ぬ、
ハイ三本勝負ね、
となったら、急に面白くなるだろうね。
(カイジは大体そういう話だけど)
つまり死と生はスパイスである。
何にもないときに味をつけられるし、
良く煮込んだうまいものの、エッジを立てることができる。
うまいこと使うことだね。
僕が格闘技や武術が好きなのも、
命がかかっているからかもしれない。
負けたら死、というのは人にものすごいアイデアを降らせることがある。
どんな姑息なことをやろうが、
生きたほうが勝ちだから、
難易度が高かろうが、誰もやっていないことだろうが、
思いつくことがあるわけだ。
人類はそうやって変な方向の進化を見つけたのかもしれないね。
それが娯楽になるわけ。
2024年12月09日
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