2024年12月11日

嘘をつく

ストーリー上の嘘をつく話ではなく、
撮影上の「嘘をつく」という専門用語の話でもしてみよう。

撮影用語で「嘘をつく」という用語がある。
現場でよく使う方法論なので。


撮影は、シーン単位で行なわれる。
ある場所にカメラや照明やスタッフを機材車で運び、
そこで展開して撮影するわけだ。
(弁当を広げる、なんて言い方をする)

多くの場合、1シーン1カットということはない。
たいてい数カットに割ることになる。
つまり、
ある場所でのあるストーリーの一部を数個に分けて撮る、
というのが撮影という行為である。
つまり、撮影の最小単位はカットである。

で、そのカットを撮っているとき、
「嘘をつく」ことがあるという話だ。


どういうたぐいの嘘か。
例えば、「立ち位置で嘘をつく」ことはよくある。
そのシーンのその時点で、
どこに立っているかを決めるのは、
ある程度脚本には書いてあるものの、
現実的に決めるのは監督の仕事だ。
椅子に座っている、ここで立つ、
ここでこっち向きに立っている、
などを決めるわけ。
このセリフを言うときにはここにいるが、
次の相手のセリフの間に歩いて、
こっちにいる、などと決めるわけだ。

これを英語でステージングという。
ステージで歩いたり立ち止まったりする動線を、
決めるわけだね。

ステージングに当たる日本の用語はない。
配置演出、動線演出などと訳されるけど、
現場で言われることはない。
せいぜい「ダンドリ」ということばの中に含まれる。
ダンドリはステージング+撮影部や照明部のステージングも含む。
ステージングは俳優部のみのダンドリ、
ということもできる。
そういう意味では、
ダンドリは、俳優たちのステージングを決めて、
撮影部のステージングを決めて、
照明部のステージングを決めること、
などのようにとらえられる。


さて。
俳優たちの動きは、
ダンドリで決められたステージングのことである。
あるセリフを言うときにこの立ち位置にいる、
というようなことだ。
で、この総合的なダンドリの中の、
Aという点からBという点までを撮影するのが、
カット単位での撮影である。
(そのシーンの全カットを撮影し終えたら、
「シーンが埋まった」などという。
シーンという全体を、パーツであるカットで埋めていくのが撮影だ)

さて。
ここであるカットで「嘘をつく」ことがある。
もっとも多いのは、立ち位置で嘘をつくことだ。
全体のお芝居ではここに立っているはずだけど、
カメラがここから狙った場合、
あまりいい絵にならないので、
ちょっと立ち位置を嘘をついて、
このカットだけここに立っていることにしよう、
他のカットとの整合性は分からない程度に、
嘘をついて、
より分かりやすく、いい絵にするのである。

嘘のつき加減は、半歩だけずらすとか、
大胆に三歩くらい立ち位置をずらすとか、
なんなら背景の物を動かして、
よりよい絵にするとか、
色々ある。
絵によるし、編集したときに嘘をついていることがばれない程度である。

つまり、
観客は嘘をつかれている。
なぜ嘘をつかれるかというと、
「そのカットがそのままでは分りにくい」からである。
その芝居ではリアルな立ち位置だとしても、
カメラから見たら芝居が分かりにくいときに、
嘘をつくのである。

逆にいうと、我々が見るものは、
分りやすく整理された絵である。

構図が決まっているということは、
その構図が意図するものが把握しやすいということである。
そのように立ち位置などで嘘をついているのだ。

整理されていない絵を見るには、
アマチュア映画の構図を見るとわかりやすい。
写真でも同様だ。
アマチュアのつくる絵と、プロのつくる絵は、
何が起こっているかのわかりやすさがだいぶ違うんだよね。
写真や動画ばかりでなく、
二次元の絵ですらそうかもね。

写真や絵だと時間軸を要しないが、
映画や漫画だと時間軸がある。
そこでダンドリにおいて多少の嘘があり、
絵が分かりやすく、いい絵になるようにしてあるのが、
プロの仕事というものである。
(そしてその嘘がばれるようではプロの嘘とは言えまい)


そんなに嘘があるんだっけ?
監督やカメラマンによって嘘をつく回数は違う。
僕はほぼ全カット嘘をつく。
ドキュメント系の作家は嘘をつくのが下手だと思う。
僕はすべてがつくりごとなので、
それが分かる構図を選択する。
逆にいえば、リアルなストーリーは分りにくい絵で構成されがち、ということだ。
ドキュメントのリアリティは、
「分りにくい絵」「しょぼい絵」で、
成立しているともいえるよね。


さて。
なんでこんな話をしたかというと、
ストーリーの考え方と同じということだ。

我々のやっていることは、
フィクションである。
架空の実在しない嘘の話である。
リアルな本当の話ではない。
だから、
どういう嘘をつくのか、ということだ。
嘘とばれるのは嘘のつき方が下手だ。
嘘すぎて逆に突き抜けるやり方もある。
鈴木清順とか実相寺昭雄とか深作欣二とかね。

リアル寄りの話にして、
しょぼくなるやり方もある。
僕がいまいち是枝裕和が好きじゃないのは、
分りにくい絵が多く、
嘘のつき方が下手だからかもしれない。

どこを狙うのか、決めなければならない。
そしてそれは、
少なくとも一つの話の中では、
統一されなければならない。
語り手の首尾一貫性は保証するべきだ。


というわけで、
私達は嘘をつかれた絵を見て、
嘘であるフィクションを摂取している。
なぜか?
現実をわかりやすく分解するためだと、
僕は考えている。

つまり、
現実を分りやすく分解していないフィクションは、
上等なフィクションではない、
と僕は考えている。
分りにくかったり、
分りやすく分解してみたら大したことをしていないものは、
下等なフィクションであると考える。


というわけで是枝の「怪物」を見た。
途中まではとても面白いのに、
第三章の子供達の話になったら、
急につまらなくなった。
すべての種明かしを放り出してあの落ちはねえわ。
現実は全てが明らかになることはない、
というスタンスは、
フィクションという嘘をついてないのではないか。
posted by おおおかとしひこ at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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