ストーリー上の嘘をつく話ではなく、
撮影上の「嘘をつく」という専門用語の話でもしてみよう。
撮影用語で「嘘をつく」という用語がある。
現場でよく使う方法論なので。
撮影は、シーン単位で行なわれる。
ある場所にカメラや照明やスタッフを機材車で運び、
そこで展開して撮影するわけだ。
(弁当を広げる、なんて言い方をする)
多くの場合、1シーン1カットということはない。
たいてい数カットに割ることになる。
つまり、
ある場所でのあるストーリーの一部を数個に分けて撮る、
というのが撮影という行為である。
つまり、撮影の最小単位はカットである。
で、そのカットを撮っているとき、
「嘘をつく」ことがあるという話だ。
どういうたぐいの嘘か。
例えば、「立ち位置で嘘をつく」ことはよくある。
そのシーンのその時点で、
どこに立っているかを決めるのは、
ある程度脚本には書いてあるものの、
現実的に決めるのは監督の仕事だ。
椅子に座っている、ここで立つ、
ここでこっち向きに立っている、
などを決めるわけ。
このセリフを言うときにはここにいるが、
次の相手のセリフの間に歩いて、
こっちにいる、などと決めるわけだ。
これを英語でステージングという。
ステージで歩いたり立ち止まったりする動線を、
決めるわけだね。
ステージングに当たる日本の用語はない。
配置演出、動線演出などと訳されるけど、
現場で言われることはない。
せいぜい「ダンドリ」ということばの中に含まれる。
ダンドリはステージング+撮影部や照明部のステージングも含む。
ステージングは俳優部のみのダンドリ、
ということもできる。
そういう意味では、
ダンドリは、俳優たちのステージングを決めて、
撮影部のステージングを決めて、
照明部のステージングを決めること、
などのようにとらえられる。
さて。
俳優たちの動きは、
ダンドリで決められたステージングのことである。
あるセリフを言うときにこの立ち位置にいる、
というようなことだ。
で、この総合的なダンドリの中の、
Aという点からBという点までを撮影するのが、
カット単位での撮影である。
(そのシーンの全カットを撮影し終えたら、
「シーンが埋まった」などという。
シーンという全体を、パーツであるカットで埋めていくのが撮影だ)
さて。
ここであるカットで「嘘をつく」ことがある。
もっとも多いのは、立ち位置で嘘をつくことだ。
全体のお芝居ではここに立っているはずだけど、
カメラがここから狙った場合、
あまりいい絵にならないので、
ちょっと立ち位置を嘘をついて、
このカットだけここに立っていることにしよう、
他のカットとの整合性は分からない程度に、
嘘をついて、
より分かりやすく、いい絵にするのである。
嘘のつき加減は、半歩だけずらすとか、
大胆に三歩くらい立ち位置をずらすとか、
なんなら背景の物を動かして、
よりよい絵にするとか、
色々ある。
絵によるし、編集したときに嘘をついていることがばれない程度である。
つまり、
観客は嘘をつかれている。
なぜ嘘をつかれるかというと、
「そのカットがそのままでは分りにくい」からである。
その芝居ではリアルな立ち位置だとしても、
カメラから見たら芝居が分かりにくいときに、
嘘をつくのである。
逆にいうと、我々が見るものは、
分りやすく整理された絵である。
構図が決まっているということは、
その構図が意図するものが把握しやすいということである。
そのように立ち位置などで嘘をついているのだ。
整理されていない絵を見るには、
アマチュア映画の構図を見るとわかりやすい。
写真でも同様だ。
アマチュアのつくる絵と、プロのつくる絵は、
何が起こっているかのわかりやすさがだいぶ違うんだよね。
写真や動画ばかりでなく、
二次元の絵ですらそうかもね。
写真や絵だと時間軸を要しないが、
映画や漫画だと時間軸がある。
そこでダンドリにおいて多少の嘘があり、
絵が分かりやすく、いい絵になるようにしてあるのが、
プロの仕事というものである。
(そしてその嘘がばれるようではプロの嘘とは言えまい)
そんなに嘘があるんだっけ?
監督やカメラマンによって嘘をつく回数は違う。
僕はほぼ全カット嘘をつく。
ドキュメント系の作家は嘘をつくのが下手だと思う。
僕はすべてがつくりごとなので、
それが分かる構図を選択する。
逆にいえば、リアルなストーリーは分りにくい絵で構成されがち、ということだ。
ドキュメントのリアリティは、
「分りにくい絵」「しょぼい絵」で、
成立しているともいえるよね。
さて。
なんでこんな話をしたかというと、
ストーリーの考え方と同じということだ。
我々のやっていることは、
フィクションである。
架空の実在しない嘘の話である。
リアルな本当の話ではない。
だから、
どういう嘘をつくのか、ということだ。
嘘とばれるのは嘘のつき方が下手だ。
嘘すぎて逆に突き抜けるやり方もある。
鈴木清順とか実相寺昭雄とか深作欣二とかね。
リアル寄りの話にして、
しょぼくなるやり方もある。
僕がいまいち是枝裕和が好きじゃないのは、
分りにくい絵が多く、
嘘のつき方が下手だからかもしれない。
どこを狙うのか、決めなければならない。
そしてそれは、
少なくとも一つの話の中では、
統一されなければならない。
語り手の首尾一貫性は保証するべきだ。
というわけで、
私達は嘘をつかれた絵を見て、
嘘であるフィクションを摂取している。
なぜか?
現実をわかりやすく分解するためだと、
僕は考えている。
つまり、
現実を分りやすく分解していないフィクションは、
上等なフィクションではない、
と僕は考えている。
分りにくかったり、
分りやすく分解してみたら大したことをしていないものは、
下等なフィクションであると考える。
というわけで是枝の「怪物」を見た。
途中まではとても面白いのに、
第三章の子供達の話になったら、
急につまらなくなった。
すべての種明かしを放り出してあの落ちはねえわ。
現実は全てが明らかになることはない、
というスタンスは、
フィクションという嘘をついてないのではないか。
2024年12月11日
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