萩尾望都の初期三大名作といわれる、
「11人いる!」「ポーの一族」「トーマの心臓」のうち、
最後だけ読んでいなかったので、これを機に一気読みした。
BLをがっつりやると聞いてはいたので、
覚悟して読まないとなあ、とずっと放っておいたもの。
俺さー、ギムナジウム(寄宿学校)ものを、
サナトリウム(高原の隔離療養所)ものだと、
勝手に勘違いしててさー、
ひと夏の結核の隔離施設で出会った〇〇とトーマがいて、
「俺の心臓を移植してくれ、そうしたら君と一生いられる」
みたいな話かと思ってたんだよ。
ギムナジウムって全寮制学校ものじゃないか。
「くりぃむれもん」といえばおじさんにはわかるやつだ。
以下ネタバレで。
僕は男子校出身である。
関西は優秀な男子は男子校に行く。
中高6年の一貫校だ。
寄宿こそしないものの、一種のサンクチュアリになる。
それは、女子の想像するようなほわほわしたものではない。
小学校男子がまだ続く、阿呆とネタとイキリ合いの、
喧嘩のないヤンキー漫画みたいな世界だ。
性の目覚めは中一か中二くらいで、以後はエロ本が通貨になる。
軽音楽部が他校の女子と交流して童貞を捨てたと聞き、
俺たちはソープランド行きの金をためる。
そんな感じだ。
勉学以外は趣味に全振りである。
漫画、テレビ、映画、ゲームあたりが主流で、
僕らはなんでも履修したものだ。
小学校から漫画は描いてたし、中二ではじめてカメラを持ち、映画を撮ることになった。
カンフー映画である。
そんな男子校のリアルからしたら、
ちゃんちゃらおかしな少年ものが繰り広げられていた。
うちの同学年250人いる中、一人だけゲイだったらしい。
249人は女子の裸を求めていた。
そして、少なくともこのBLなるものは、
ゲイではないものを描いているんだろうと感じた。
どちらかというと、
「第二次性徴以前の女子が、まだ続いている世界」
のような気がしたんだよね。
なにせ、僕が初めて読むジャンルの漫画だったので、
まだ戸惑いながら解釈している感じだ。
多分だけど、女子って自分が制限された、
劣った者というコンプレックスがあるんじゃないかと思っている。
第二次性徴を迎えたあとは、
レイプとか避ける意味もあるから、
男子より制限が強くなり、自由がない状態になり、
「なんで男子はあんなに自由に見えるのに、
私たち女子には制限があるのか」とコンプレックスを持ってるような気がする。
だから、男子たちの世界を、
「想像の中の自由な世界」と思っている節がある。
なんならリアルじゃなくてもいい、と思っている節もある。
ファンタジーにさせてくれ、という感じ?
(旧)ジャニーズの売り方がそうだった気がする。
イケてる男子たちが集まって、きゃいきゃい女子のように遊んでいるように、
見せていた。
そんなわけないでしょ。男子3人集まれば、
下ネタしか話さない。興味があるのは女とバイクだ。
女子(第二次性徴前の)が集まって、
きゃいきゃいやっている感じは、
実は女子にしかない。
おそらくそのときの女子たちにあった全能感は、
第二次性徴とともに失われ、
男子たちは全能感があるように見えて、
自分たちは失ったと感じるんじゃないか。
それを取り戻したい、想像上のBLで、
というのが、妄想の源泉にあるように見えた。
だからリアルな男子校はどうでもよくて、
想像上の、「私たちが初潮を迎えなかった世界」を、
概念として楽しんでいるのではないか、
と思えた。
精通前の男子という設定であろう。
だけど13〜14歳だとしたら、声変わりはするし、
ちん毛は生えてるし、精通くらいしている。
寄宿舎だとしたら、オナニーする場所に困るだろう。
そういう世界観であるべきだが、
そういうニオイは全部ないことになっている。
男子が美しさに心を奪われることはあまりない。
男子が喧嘩するときに平手打ちはしない。グーで行く。
周りは囲んで一対一になるようにする。
男子は、好きな人の好きな人がどこかへ行くように、
その人に恋人をあてがうような、
複雑なことは出来ない。それは女子の発想だ。
(第一男らしい行動ではない)
男子が身だしなみを整えるのは、女子の前だけだ。
そして男たちが集まれば無意識のマウントの取り合いで、
誰が強いのかの序列の付け合いである。
でもそんな男子校リアリティはいらないのだろう。
だから、
第二次性徴前の、全能感があったころの女子が、
そのまま続いていたとして、
という世界観が、この世界のベースなのだな、
と感じた。
そのうえで、同性愛というよりは、
「人が人を好きになることの純粋性」について、
描いているのだと感じた。
レイプされたから天使じゃないとか、
女子の発想だよな。
男は端から汚れた世界にいるから、
泥の中でどう戦うかしか考えていない。
自分が汚れていても、好きな人が汚れていなきゃそれでいいんだ。
主人公ユーリの「自分が汚れたから完璧ではない」、
というのは、生理があるから汚れている、と卑下する発想に似ていると思った。
また、ヒロイン役であるところの、トーマやエーリクの発想も女子っぽい。
全身をもって愛する純粋さは女子のものだと思う。
男子は好きだから守るとか、
ただ好きを維持して表現するだけでは足りないと思うんじゃないかなあ。
まあ、男と女の差異はこの際どうでもいいか。
そういう意味で、
僕は少女漫画だなあと思ったわけ。
男がいない世界だな、と思ったわけだ。
描いてあるのは全員男だということになっているが、
男はそこにいないなと。
男の脚本家が「女が描けてない」なんてよく批判されるが、
この漫画に関しては、「男が描けてない」といえる。
そしてこれは、「男を描いたもの」ではなくて、
BLという、女が女にならなかった世界の物語である、
と考えれば、
まあ分らなくもないな、と理解した。
黒髪の主人公ユーリは、なぜかモテモテである。
金髪のヒロイン、トーマ、エーリクに、
ちょっと不良で年上で同室のオスカーに、
悪役の年長者サイフリートに、
間抜け役のヘルベルトや同級生たちなどにだ。
ハーレムものじゃんこれ。
BLというのを間引くと、
単なるハーレム恋愛もの(願望)になるわけか。
それが、ギムナジウムの名門の雰囲気、
ドイツの雰囲気、金髪の雰囲気、
固有名詞や習慣などの雰囲気で、
パッケージされているのが、
ちょうどよくまとまっているんだな、
と感じた。
ラスト、急に神父になると言い出したのは、
よく考えてみると、
モテまくったが愛する者を失った女性が、
「出家する」というオチやんけ、と思った。
つまりは瀬戸内寂聴オチだ。
愛とは何か、命とは何か、罪とは何か、
などなどを突き詰めると、
ヒロインは出家するのである。
というわけでユーリは受けなんですかね。
物語論としては、
ミッドポイントがはっきりしているのが興味深かった。
エーリクが母の死で家出して、それを迎えに来たユーリの実家に泊まり、
帰るまでの一連のシークエンスだ。
限定場所ものでの、唯一の「外」のシーンである。
そこがちょうど真ん中に位置して、
それまでふわふわしていたものが、
二人の愛の方向性が決定的になったシーンであった。
物語の常道であるところの、
ミッドポイント直後に「迫り来る悪」があった。
列車の乗り換えで、なぜか悪役サイフリートと再会する場面だ。
このことによって後半の焦点は、
主人公ユーリの背負った過去の罪、
天使の羽がなくなった理由について、
になるわけだ。
うまく省略すれば、180分程度の映画になるかも知れないね。
構成がものすごくしっかりしている。
これをいちいちシーンに書き出して、
全体と部分の役割を眺めるのは、
構成の勉強になると思ったね。
耽美とか、禁忌(同性愛)とかをウリにしながら、
実の所純粋な少女漫画だな、と感じた。
歴史的名作扱いされるのもよくわかる。
そして、男子がまったく評価していない、
女子だけが評価している理由も。
「少女漫画としての完成度」が高いのだね。
ジュネとか、そのへんの文脈は正直分らない。
どういうBLが流行っていたのかも知らない。
たぶん、女子は、恋愛している女子が嫌いなんじゃないかなあ。
モテナイ男子がイケメンを嫌っているように。
すぐ脱いだりおっぱいが出てくるご都合のエロ漫画を童貞専用と呼ぶならば、
純粋な愛を描く少女漫画も、処女専用漫画といっても、
過言ではあるまいか。
世界はもっと汚いし、やることが多い。
それをぜんぶ避けて、限定された空間だけで行われている、
少女遊びの続き。
少女たちが子供の頃守られていたことを、
少女たち本人は知らないのだろう。
そういう意味で、もと少女たちが、
懐に大事に持っていたい漫画になっていることは、
よくわかった。
ギムナジウムの逆の妄想が、「くりぃむれもん」の第一作にある。
修道院レズものだ。
まあ、大体似たような発想ということさ。
純粋な愛と策略ではなくて、ストレートな肉欲であるところが、
女子の求めるものと、男子の求めるものの違いがあって、
わかりやすい。
まあ時代は下って21世紀だから、
もっと需要や欲望や性癖は複雑になっているに違いない。
僕たちは少女がどうやって女になるか、よくわからない。
同様に、少年がとどうやって男になるかも、女子はよく知らないかも知れない。
「トーマの心臓」の中で、
男はルドルフ校長(オスカーの父)と、片足を失ったシドくらいか。
少年がどう男になるかは、もちろん描かないだろう。
そこに女子は興味がないんだろう。
だから(旧)ジャニーズは、
30歳になっても40歳になっても、
ギムナジウムの少年を演じさせられている。
僕の背中には羽があったり、硝子の少年時代にいたりするわけだな。
少年が男になる映画が僕は好きなのだが、
そういうのが最近つくられないのは、
ターゲットが女性に移ったからかもね。
そこに興味がないし、響かないんだろう。
少女漫画は進んでは僕は読まないが、
萩尾望都は結構好きで、
それは発想がぶっ飛んでいることが多いから。
でもSF系しか読んだことが無かったので、
なんか新鮮でした。
彼女の構成力の凄さは、ポーの一族の令和最新版でも堪能できる。
トーマの心臓は、二度読み返すことはないかもだけど、
本棚のどこかに置いておきたい作品だと思う。
そういう大切のされ方をしているんじゃないか。
人が人を好きになるってどういうことだろう。
理想と現実はどう違うんだろう。
今まで経験してきた現実が多い、
歴戦の女子と話してみたいものだ。
そういえば、ジャニファンでも良く聞く、
「付き合いとかじゃなくて、できれば壁になって眺めていたい」
という発想はよくわかった。
それが「尊い」という感情になるのもわかった。
私が介入して良い世界ではない、くらいの意味なんだな。
そういう意味では、妖精の世界が近いのかもね。
2024年09月07日
この記事へのトラックバック
>耽美とか、禁忌(同性愛)とかをウリにしながら、実の所純粋な少女漫画だな、と感じた。
正解です。BLは同性愛のガワで同性愛と異なるものを描いています。
BLはリアルな男性の世界じゃないとかのある種のミソジニー的な指摘は『ミッキーマウス』にネズミが喋って服を着るわけがないというのと同じようなものです。
また、「BL」と「少年愛をモチーフにした少女漫画」も別物ですしレディコミと少女漫画も違うものです。
この記事が参考になると思います。
https://realsound.jp/book/2024/06/post-1699528.html
萩尾望都先生は過去の対談で13,14歳の少年は「肉体的な感じがしない」とおっしゃっていたことがあります。
このとき先生の頭にあったのは現実のじゃがいもみたいな昭和の中学生ではなく、漫画の少年たちです。
要するに先生にとっては「少女漫画に出てくる少年」というモチーフは一種のツールというか観念なんです。
後、
>多分だけど、女子って自分が制限された、
劣った者というコンプレックスがあるんじゃないかと思っている。
この作品を読んでこういう発想に至るのはいい読みだと思います。
萩尾望都は繰り返し作品の中で社会規範によって差別・抑圧されている者が愛によって自己解放をするという構造を描いています。
『トーマ』ならゲルマン主義によって差別されて優等生にならざるを得なくなっているユーリですね。
萩尾望都がポピュラリティを獲得した理由の一つはこの部分かもしれません。
解説ありがとうございます。
神は読むべき時に読む作品を持ってくるので、
この年で読める余裕?ができたので、
ようやくトーマを読めたのかもです。
ユーリの人種的抑圧はあくまでガワで、
別の抑圧を本当は描きたいのではないか、
と思ってそのくだりは書きました。
たしか「11人いる!」でも似たような構造があったような、
朧げな記憶。(読んだのは30年くらい前なので)
僕はずっと旧ジャニーズの魅力が分からなくて、
ただのイケメン商売ではないそのディテールがわからなかったんですが、
ああ、妖精商売なのね、と理解できた次第です。