巨人ファンで知られる糸井重里が昔言ってたんだけど、
「どう応援していいか分からない時は、
名前を叫ぶんだ。それで通じる」って。
猛烈に湧き上がる感情を言葉に出来ないときは、
名前を叫ぶと良い。
これは以後も僕の応援感情の基準になっている。
感情移入とは応援である。
最初は○○っていいよなあとか、
○○は好きとかだったのが、
○○はまるで私のようだとか、
○○は私だ…!となり、
最後には、
○○を応援するしかない、
○○には幸せになってほしい…!
とただ願うだけになる。
そして○○の一喜一憂をまるで自分のことのように思う。
同一化というが、
自分だと思い込むのではなくて、
自分と近しいから応援する、
というのが正しいと僕は考えている。
そして、良い感情移入ほど、
分析のような理性を通り越して、
感情ダダ漏れになるような、
魂の部分で行われるものだと思う。
不幸の共有でそうなるのだろうか。
せめて○○には幸せになってほしいからか。
不幸な人は他にたくさんいるのに、
なぜ○○は特別にそう思うのか。
まるで○○は私のようだと肩入れがあるからだ。
感情移入や応援は、
身贔屓である。
それも身内への身贔屓よりも更に強力な、
魂の身贔屓だ。
○○と共に泣き、笑い、怒り、戸惑い、
ドキドキし、ハラハラし、
孤独を感じ、喜び、ショックを受ける。
それでも前に進み、幸福を得ようとする○○を、
応援せざるを得ない。
あの人はまるで私だ、○○が幸せにならないなら、
世の中どうなってるんだ、
とすら思う。
そんなぐちゃぐちゃの、
整理されていない、
猛烈な思いが、
良い感情移入だと思う。
そうなった時、
応援するには、「○○ーっ!」と、
名前を叫ぶしかないんだよね。
アイドルでもいいさ。
巨人の選手でもいいさ。
そして、
架空のストーリーの中の、その人の名前でもいい。
両手いっぱいの感情を抱えて、
それを言葉に出来ないときは、
もうその人の名前を100回だって叫ぶしかないんだ。
たぶん、そうなるのが極上の状態だ。
20年ぶりくらいだろうか、
「ガラスの仮面」の続きを読んだのは。
もうね、この名前を呼ぶしか出来ない感情が、
目が覚めても続いている。
名作の条件は?
と聞かれた時、これが答えなんじゃない?
この感情が何かを言葉にできないが、
でも爆発が止まらなくて、
叫ぶしかない状態。
語彙がないとか、退化してしまってるとか、
よく言われるが、それでいいんだよ。
この頭のいい私がぼーっとなり、
名前を叫ぶしか手段がなくなる状態。
その熱狂こそが、名作の条件だ。
だから、
マヤー!速水ー!亜弓ー!
あと名前分からないけど速水の秘書の二人ー!
月影先生ー!
となってしまうガラスの仮面が、
いかに名作かということさ。
名作は分析を許さない。
名前を叫ぶしかない感情に持っていくことだ。
ガラスの仮面を分析できる日が来るのだろうか?
何回読んでも「おもろい」しか出ないだろうな。
色々とネットで検索しまわると、
12年新巻が出てないって?
「伊豆での再会」のために、みんな12年待ってるの?
もう叫ぶしかないやん。
もし、「ガラスの仮面」を読んだことのない人がいるならば、
こんなに不幸なことはない。
この熱狂を知らないとは。
そしてこんな幸福なことはない。
今から最新巻49巻まで、
初見で一気読みする権利が発生している。
鼻血でるわ。
(僕は紙で読みたいので漫画喫茶に籠る)
恐らく、作者が若い時のボルテージを、
貯めるのに時間がかかるのだろう。
みんなの元気を美内すずえにあげてくれ。
元気玉をつくるんだ。
北島マヤー!紅天女ー!と叫ぶだけでいいんだ。
それで遠くからでも届く。
さあ。
翻って、あなたの脚本はどうだ?
主人公の名前を、ヒロインの名前を、ライバルの名前を、
叫ぶしかない状態に、
持っていってるかな?
始まってすぐは無理だろう。
半分過ぎたところでどう?
第一ターニングポイントでそうなってる?
クライマックスでそうなってれば合格だ。
ラストシーンでもいいよ。
暗転してエンドロールに入る瞬間でも良い。
出来れば後半くらいからそうなってるといい。
気持ちと理屈の両輪で、そこに持ってゆくのだ。
マヤは気持ちで持っていって理屈が足りない。
亜弓は理屈は立つが気持ちが足りていない。
ほんとによく出来たストーリーだ。
どっちも頑張ってほしいもの。
真の感情移入を知りたければガラスの仮面を読め。
叫ぶしか出来ない自分を観察してみよ。
2024年09月08日
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