故市川準さんと若手の頃飯を食ったことがあって、
その時に「最近の演出家のつくるものは、マンガっぽい」
と嘆いてたことを時々思い出す。
せっかく実写やってるんだから、
マンガやってるのは勿体無いよ、というニュアンスだったのだが、
じゃあどんなのが実写っぽくて、
どんなのがマンガっぽいんだ、
というのは、感覚としてはある程度わかるものの、
言葉にするのは難しいと感じていた。
それが以下の例を見て腑に落ちた。
> ノトラレとはまた違った「チャラ男が清楚っぽい子に強引に…」って感じはどうだろう?って思いついて描いてみたけど、チャラ男くんが可哀想になってしまって反省した
https://x.com/damedame_ol/status/1835001170349478160
この場合、
チャラ男、清楚っぽい子は、
キャラクターのテンプレである。
ツンデレ、チー牛などもテンプレのひとつだろう。
チャラ男と設定することで、
そのリアクションをチャラ男じゃなくするとエロいとか、
そのようなズラシが可能になる。
清楚っぽい子はSで攻めになり、
テンプレでないからエロいというわけ。
そして、
「テンプレとずらすことがエロいというテンプレ」
にこれは陥っていることを、
この作者も自覚しつつある。
キャラクターを考える時、
テンプレはベースになり、
作りやすいのはたしかだ。
出汁を一からつくるより、
めんつゆを使うのはよくあることだ。
さて、
市川準が言っていたことは、
「テンプレという記号同士の話になってしまっていて、
実写の豊かな部分が抜け落ちている」
ということなんだと思う。
記号化することで楽に進められるけど、
その「楽に進めていることがつまらない」
と感じていたのだろう。
インスタント食品への抗議なわけだね。
時短にはなり、工程を楽にできるが、
そこで失われるものは大きいぞ、
ということだ。
テンプレの記号化していないキャラクターは、
扱うのは非常に難しいと思う。
なかなか自分のものにならず、
暴れ、一定しないであろう。
だけど、それこそが「人間と付き合ってること」
なんじゃないか。
記号化すること、テンプレ化することは、
要するに、
「全部妄想したい、全部支配下におきたい、
全部の粒を揃えたい」
ということなのではないか。
人間はそうじゃないよね、
暴れるし、勝手になんかするし、
支配に甘んじないよね、
ということを、
市川準は感じてたのではないだろうか。
記号化してテンプレ化して、
予測し切れることに納めることは、
マンガではありえても、
実写では豊かさが足りないよ、
ということを、
言おうとしてたのではないかと思う。
それは、
キャラクターだけでなく、
ストーリー構造やテーマや構成や、
場面場面のすべてにおいて、
だったのではなかろうか。
マンガ的にすること、
記号的にすることで、
インスタントになるのは確実で、
それは大量生産を可能にするのかもしれないが、
それは人生ではないよ、
ということを言っていたのかなあ、
と思った。
まあ、若い時はジャンクフードを食い、
早く遠くに行こうと思うことはとてもよくあることだ。
僕は記号化することで早く行けることを考えていたのかもね。
まあ、当然、
人生の深みなんて気づかないわな。
じゃあ、人生の、
記号化してない、テンプレに収まらない、
魅力や深みとはなんぞや。
それを作品にすることが、
ものを書くってことなのだ、
と市川準は言っていたような気がする。
もちろん、ジャンクフードよりも、早く、高い威力でね。
2024年09月15日
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