2025年01月03日

本音の開示は、まだ序盤

本音の開示の場面は重要だ。
そのキャラクターの全身が丸裸になる。
僕はストーリーというのは全身で解決するようなものだと思っているので、
その全身が明らかになる、本音の開示のシーンはとても重要だと考える。

それが、物語のどのへんになればいいか?


最後の最後にするのはよくないと思っている。

以前、中学生に演劇を教えている人の話を書いた。
中学生にシナリオを書かせると、
いじめとかに耐えて耐えて、
最後に自分のほんとうの姿を見せて、
「ほんとうの姿を見せた」とカタルシスがあり、
それでおしまい、
という話がとても多いらしい。

つまり、「本音を開示しておしまい」
というパターンがやたら多いんですって。
つまり、
本音の開示をしたら結論になる、
と勘違いしているパターンがとても多いらしいのだ。

それは間違いである。


現実ならば、
お前はそういうやつだったのかと「理解される」ことによって、
相手の見方が変り、いじめがなくなることもあるのかもしれないが、
物語ではまだ半ばである。
なぜなら、
アクションであるところの本音の開示に対して、
「相手がどうリアクションするか」が抜けているからだ。

また、本音を開示する→よし、いじめをやめた、
だとしたら、1ターンのアクション、リアクションでしかない。
物語とはアクションとリアクションの連鎖である。
数ターンが物語だ。
つまり、
本音を開示する→いじめをやめた→○○○→○○○
→○○○→○○○…となるべきだ。
あるいは、
○○○→○○○→○○○→○○○→本音を開示する
→いじめをやめた→○○○→○○○→…
でもよい。
つまり、
「本音を開示する→いじめをやめた」は、
物語のクライマックスとしては、弱いのである。

だから普通は、
…→本音を開示する→同調されずに反発される→…
のような、より困難な展開になるのだ。
そして最終的にどうなるか?
が物語というものだ。


物語は三人称である。

一人称から見たら「自分を晒すこと」が、
最大のクライマックスになるかもしれないが、
三人称から見たら、ある人がセリフを言っただけである。

だから、周りの人がそれに対してどうするか、
からが本番なのだ。

「そうだったのか、俺たちは誤解していたよ、仲良くやろうな」で終わったら、
1ターン会話の物語になってしまう。
それは物語ではない。

ある人の本音の開示に対して、
「俺はそうは思わない」とか、
「一部分るが、一部反対する」とか、
色々な対立があるところからが、
物語のはじまりといってよい。

そして、その違いや対立を越えて、
第三の結論に辿り着くことが物語である。
(アウフヘーベン)

だから、
本音の開示はストーリーのきっかけ、まである。
だから、序盤にすぎないのだ。

だって現実で、
本音を開示していじめがやむか?
やまないよな。
その客観性なのだ。


本音の開示→そうだったのか、おしまい、
というストーリーは、
困ったー!→そんなときこれ!、助かったー!
というCMと大差ない段取りだ。
つまり15秒で終わるストーリーということだ。
しょうもないのである。


映画や演劇でやるべき大きさのストーリーは、
本音の開示から始まる大きさ、
といっても過言ではない。

俺はこう思う、お前はこう思う、
ちがうな、喧嘩だ、あるいは共闘するぞ、
がストーリーである。

これから何かをするのだ。
メインの問題を解決したり、サブの問題を解決するのである。
そのうち、内面の克服に直面して、
それをも解決しなければいけなくなるのだ。

「本音を開示して認められる」のは、
書き手の願望をただ書いているだけで、
ストーリーにはなっていない。
つまりメアリースーというわけだね。


本音の開示がクライマックスにしたいのならば、
「もはや全員がその本音を知っていて、
開示する瞬間待ち」という状況にするべきだ。
「待ってました」クライマックスのタイプだね。

そこにカタルシスがあるということは、
他の全員がそれを待っていました、というパターンに限ることを知っておこう。
つまり観客や一部の人物はすでに本音を知っていて、
あとは開示だけを待ち続ける、
ということでしかない。
すれ違いのラブストーリーとかは、
こういうものを求めているだろう。

ふつうは、
本音を開示したときが、
ストーリー開始ののろしのようなものだ。
ここから全てが始まる。
裸一貫になって、飾りをかなぐり捨てて、
目的のために頑張ることの決意表明のようなものが、
本音の開示なんじゃないか。

つまり、遅くとも第一ターニングポイント、
もっと早くても良い、ということになる。
だから、序盤だと言っている。

途中までずっと主人公や他のキャラクターの本音が分らない、
なんてことはないんじゃないか。
観客の不信に繋がるからね。

もちろん、本音というのはたった一つとは限らない。
いくつもの本音を持っていて、
少しずつ開示するでもいいよ。
それにしても、
ストーリーが動き始める程度の大きな開示が、
序盤にあるべきだろうね。

また、ある人が本音を開示したら、
それに感じ入った人も本音を開示するものだよね。
それが人間というものだ。
そういうシーンを描くことは、
とても繊細な筆遣いが必要だ。
それを何シーンも書けたら、
ラブストーリーの名手になれると思うよ。

人の心は繊細である。
それを主人公だけでなく、
他人のそれまで踏み込んで書けるか、
複数の人のそれを書けるのか、
全員異なる本音を書けるのか、
というのは、とても大事なことだ。

「繊細な俺一人を分かってほしい」というメアリースーとは、
まったく異なる原理でストーリーは動いているわけだね。


もちろん、繊細であることは物語作家の必要条件であるが、
それを他人のものとして俯瞰できて、
切り離してパーツとして利用できるパワーが十分条件ともいえる。
posted by おおおかとしひこ at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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