2025年01月04日

なぜそれが面白いのか

ある種の批評をできることは、とても重要だ。


ある面白いものに出会ったとしよう。
それを言語化しておくといいぞ。
批評でなくてもいい。
自分の感覚として、でよい。
〇〇が〇〇だから面白い、
〇〇が〇〇になって、じつは〇〇だったと分かって面白い、
〇〇の面白さは、〇〇と〇〇の融合になっている、
〇〇と〇〇に分解しただけじゃだめで、
〇〇が間に入っているとおもしろくなる、
などのように、
なるべく言葉で分析するとよい。

さて。ここまでが準備段階で、
ここからが本題だ。

「自分の作品のどこが面白い?」を、
言語化しておくのだ。
それは自作品解説というほどちゃんとしていなくてよい。
この作品は、〇〇が〇〇だから面白いのだ、
とちゃんと言語化しておくといいよ、
ということだ。
それは、以前に分析した名作たちのような感覚でよい。
単に、過去の名作分析の中に、
自作品も入る、というだけのことである。

で、ここからだ。
似た分析の作品があるかを探すわけ。
あるいは、真逆の作品があるかもしれない。
それが、自作品の参考になるぜ、
ということ。

〇〇が〇〇だから面白い、というからには、
それをもっと面白くできた名作があるかもしれない。
真逆の場合は真逆にしたら自作品と似るということだから、
それも参考になるわけ。

いまいち面白くない、というときに、
ここで生きて来る。
〇〇が〇〇な面白さを目指したが、うまく行かない場合、
それが成功した作品は、どのようにしてやっているのか?を「さらに分析する」のだ。
〇〇が〇〇な面白さだけではなくて、
実は〇〇の要素が必要不可欠だったのだ、
などのような発見をしよう、ということである。

で、その要素を自作品に入れたら面白くなるかもね、
ということなのだ。

料理にたとえる。
レシピを似たようにつくっても、おいしくならない、
という時があるとする。
塩加減やダシは似たような感じなのに、
パンチが足りないとか、いまいちな時がある。
それで比べると、鍵は隠し味だったのだ、
とか、鍵は温度だったのだ、
とかが分る時があるよね。
つまり、最初の分析はまだ完璧な分析ではなかったのだ。

だけど、完璧な分析を最初からやる必要はなくて、
大体の分析で棚にしまっておいて、
似たものとして呼び出されたときだけ、
もっと詳細に分析するべきだよ、
ということを言おうとしている。

なぜなら、似たものは沢山あるほうが、
参考にするべき方向性は沢山あるからだ。
Aという作品しか似たものがなかったら、
Aしか解がなくなってしまう。
ABCDと似た作品があるならば、
4つ解があることになる。
(うちいくつかが被っているかもだけど)
だから、
「大体似た作品の分析」というのが大事なんだよね。
その時に参考になるのは、
一つだけでなくてもよいわけだ。

こうして、
沢山の作品の良さ(逆に失敗したところ)を、
言語化していくのはとても良い。
「映画ノート」などとして、
沢山批評未満の自分メモをつくろう。
映画だけでなく、漫画や小説や演劇でもいいよ。
沢山メモしておくと、棚から引っ張り出しやすいよね。
もちろん、単に見るという行為も、とても重要で、
観客は分析しながら見ないからね。
でも心に残った素晴らしいものは、
腑分けして分析しておくのを勧める。
それがプロとして生きていくことの栄養になる。

自分の作品が煮詰まったときも、
そうした棚のメモが重要になるんだよ。
そうか、あの名作はどうやってこれを解決しただろうか?を、
考えることができるわけ。
二時間白紙を前に唸るよりも、
二時間見て一時間分析したほうが、
よっぽど出口が近くなると思うなあ。
posted by おおおかとしひこ at 10:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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