ある種の批評をできることは、とても重要だ。
ある面白いものに出会ったとしよう。
それを言語化しておくといいぞ。
批評でなくてもいい。
自分の感覚として、でよい。
〇〇が〇〇だから面白い、
〇〇が〇〇になって、じつは〇〇だったと分かって面白い、
〇〇の面白さは、〇〇と〇〇の融合になっている、
〇〇と〇〇に分解しただけじゃだめで、
〇〇が間に入っているとおもしろくなる、
などのように、
なるべく言葉で分析するとよい。
さて。ここまでが準備段階で、
ここからが本題だ。
「自分の作品のどこが面白い?」を、
言語化しておくのだ。
それは自作品解説というほどちゃんとしていなくてよい。
この作品は、〇〇が〇〇だから面白いのだ、
とちゃんと言語化しておくといいよ、
ということだ。
それは、以前に分析した名作たちのような感覚でよい。
単に、過去の名作分析の中に、
自作品も入る、というだけのことである。
で、ここからだ。
似た分析の作品があるかを探すわけ。
あるいは、真逆の作品があるかもしれない。
それが、自作品の参考になるぜ、
ということ。
〇〇が〇〇だから面白い、というからには、
それをもっと面白くできた名作があるかもしれない。
真逆の場合は真逆にしたら自作品と似るということだから、
それも参考になるわけ。
いまいち面白くない、というときに、
ここで生きて来る。
〇〇が〇〇な面白さを目指したが、うまく行かない場合、
それが成功した作品は、どのようにしてやっているのか?を「さらに分析する」のだ。
〇〇が〇〇な面白さだけではなくて、
実は〇〇の要素が必要不可欠だったのだ、
などのような発見をしよう、ということである。
で、その要素を自作品に入れたら面白くなるかもね、
ということなのだ。
料理にたとえる。
レシピを似たようにつくっても、おいしくならない、
という時があるとする。
塩加減やダシは似たような感じなのに、
パンチが足りないとか、いまいちな時がある。
それで比べると、鍵は隠し味だったのだ、
とか、鍵は温度だったのだ、
とかが分る時があるよね。
つまり、最初の分析はまだ完璧な分析ではなかったのだ。
だけど、完璧な分析を最初からやる必要はなくて、
大体の分析で棚にしまっておいて、
似たものとして呼び出されたときだけ、
もっと詳細に分析するべきだよ、
ということを言おうとしている。
なぜなら、似たものは沢山あるほうが、
参考にするべき方向性は沢山あるからだ。
Aという作品しか似たものがなかったら、
Aしか解がなくなってしまう。
ABCDと似た作品があるならば、
4つ解があることになる。
(うちいくつかが被っているかもだけど)
だから、
「大体似た作品の分析」というのが大事なんだよね。
その時に参考になるのは、
一つだけでなくてもよいわけだ。
こうして、
沢山の作品の良さ(逆に失敗したところ)を、
言語化していくのはとても良い。
「映画ノート」などとして、
沢山批評未満の自分メモをつくろう。
映画だけでなく、漫画や小説や演劇でもいいよ。
沢山メモしておくと、棚から引っ張り出しやすいよね。
もちろん、単に見るという行為も、とても重要で、
観客は分析しながら見ないからね。
でも心に残った素晴らしいものは、
腑分けして分析しておくのを勧める。
それがプロとして生きていくことの栄養になる。
自分の作品が煮詰まったときも、
そうした棚のメモが重要になるんだよ。
そうか、あの名作はどうやってこれを解決しただろうか?を、
考えることができるわけ。
二時間白紙を前に唸るよりも、
二時間見て一時間分析したほうが、
よっぽど出口が近くなると思うなあ。
2025年01月04日
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