「カメ止め」超え、なんて扱われ方をするのは、
少し気に食わない。
カメ止めが実験映画的な飛び道具だとしたら、
本映画は清き正しき王道映画。
まあ、ふつうにおもしろかったよ。
でもただそれだけだな。
以下ネタバレで。
「カメ止め」もこの映画も、
映画を作る人たちの映画。
両者に共通してる欠点が、
「なんでそんなに映画が好きなのかわからない」
ところなのよね。
映画が好きな人たちがつくってるからだろうけど、
そこが無前提の事実になってるのが気になった。
僕らはそこまで映画を好きじゃないし、
時代劇を好きじゃない。
名作は好きだが、クソみたいな作品だってあるんだぜ。
それ全部を愛せるほど僕はお人よしではない。
今この人たちの作ってるものがクソ映画なら、
作る意味なんてないとすら思ってる。
それを覆すほどの、
映画への情熱が足りない。
つまり、
「映画を作ることへの感情移入」ができない。
ヒロインの助監督が、
セーラームーンの代わりに暴れん坊将軍の下敷きを使ってたのは、
なかなか良かったけれど、
それだけ?って感じだものね。
「侍の想いを残す」っていうけど、
娯楽映画に想いを残されてもなあ。
そんなの娯楽の邪魔だよ。
その映画の台本にない段取りだろ。
だから、
「邦画の味噌汁一杯の心意気」みたいな、
ダメな意味での現場バカにしか見えなかったのよね。
一方、映画への憧れを描いた作品に、
「ニューシネマパラダイス」がある。
「この田舎町にも最新の映画館ができる」
というワクワク感や、
あまりにも人が入れないから外の白壁に写した粋なエピソードや、
何より映画を見て泣いたり笑ったりして、
心から映画を楽しむ観客が描かれる。
僕はこれが足りないと思う。
映画はなんのためにつくるの?
カメ止めのゾンビ映画はおもしろいか?
ここで作られてるハリウッドからオファーされる監督の時代劇は、
おもしろいのか?
楽しんだ観客はラスト付近に少し描かれる。
寺の夫婦のリアクションとしてだ。
命を賭けた真剣の結末がそれかよ。
「スタア誕生やな」やないやろ。
「続きが見たい」とか、
「次はどんな映画なんやろ」とかに、
なるべきではないのか。
時代劇を初めて見た高坂が、
切られ役になりたいと助監督に、
あなたのつくったものは素晴らしいのだというシーンと、
中打ち上げでスタアが演説した、
「時代劇をもう一度やりたい理由」が、
この映画の魂の部分だけど、
それが両方とも演説なのよね。
熱い想いを吐露する→相手が感動する、
だけじゃあ映画ではないよ。
もちろんそういうシーンはあってもいいんだけど、
それをテーマにしてはいけない。
スタアの時代劇をやめた理由、
切った相手の顔が忘れられないから、を、
たかが1シーンでトラウマ克服していいのかよ。
ドラマチックなんだかなんだかわからない塩梅だったね。
とはいえ、
全体的なまとまりは、
まあまあ映画を見た感じになったので、
まあまあやな、
という評価かな。
このレベルの出来の映画が、
ごろごろと転がってないから、
珍しく見えてるだけでは?
カメ止めみたいな奇跡が、
なんて期待せずに、
ふつうに面白いものを量産すればいいのに、
と昨今の映画業界のダサさを、
少し垣間見た感じかな。
2024年09月23日
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