2024年09月23日

動機の矛盾(「侍タイムスリッパー」評2)

よくよく考えてみると、主人公高坂の動機、
一貫していなくて、矛盾していないか?
以下ネタバレで。


ケーキ 世の中は豊かになったのだなあと感動
徳川滅亡を知る
本格時代劇のオファーを断る
(相手が反幕府側の長州のため。高坂は幕府側の会津藩)
侍の心を残すため時代劇に出る(疑問点1)
追加台本で、会津藩の凄惨な最後を知る
会津として長州を斬ろうとしたが、侍という大同団結を果たした(疑問点2)


疑問点は明白だ。
「徳川幕府が滅びて現代になったから、豊かになった」という現代は、
実質徳川幕府の否定である。
ケーキは、会津+幕府が敗北したから皆が食べられる。
(事実はおいといて、作中の序盤の設定からだ)

にも拘わらず、後半高坂は、
アイデンティティを会津に置き、
徳川幕府の為に長州を憎むのだ。

おかしくない?

会津と長州のコンフリクトをつくりたいのは、
クライマックスの作劇上理解できる。
じゃあ、ケーキいらないじゃん。
徳川幕府が滅亡して、こんなつまらぬ世になったのだ、
という義憤がない限り、長州を憎む理由なくないか?

劇中劇の「最後の武士」が、
どのような話であったかは不明だけど、
会津vs反幕(熊本藩を名乗ってたか)
の構図と、タイムスリップしてきた侍の素性を、
重ね合わせたいのは明白である。

会津+幕府は滅ぶべきだったのか、
長州は憎むべき敵だったのか、
自問自答がないのよね。

つまり、
主人公は何がしたいんだ?
ってなってしまう。


行動を整理すると、

・長州を会津の侍として倒す
・現代にタイムスリップしてきて、まずは生活する
・時代劇に感動して、切られ役に入門する
・大役のオファーを、時代劇から去ったしかも長州の男を拒否する
・時代劇、侍という大同団結で出演を受ける
・台本追加で、ふたたび会津の魂がよみがえる
・会津vs長州の侍として戦う
・時代劇、侍という大同団結で首は切らない

という流れだろう。
ここに、ケーキのエピソードが矛盾している。

そして主人公高坂は、
自分から望んだ行動をほとんどしていないことに気付く。

第二の人生切られ役の弟子入りを申し込んだ時と、
本身(真剣)を使った殺陣を申し出たことしか、
自ら強い行動をしたとはいえないだろう。

つまり、
この脚本にはセンタークエスチョンがないのだ。

ここに、伝統的な日本人の物語観が出ているなあ、
と思ってしまう。


日本人は、災害の多い地で育ったと言われる。
だから自然に対しては半ばあきらめていて、
来たものは来たものとして受け入れ、
反応するだけという民族性を持つと言われる。

黒船への対応も同様だ。
来るものを受け入れて、どうにかなあなあでやっていく民族であると。

80年代、ゴジラやウルトラマンを批評して、
「日本人は自ら環境を変えるようなことをしないで、
デカイモノ、ゴジラという外部に壊されないと動かないし、
デカイモノ、ウルトラマンという外部に助けてもらう甘えを持っている。
そのデカイモノ=戦争=アメリカである」
というような、戦後体制と文化を絡めた議論が流行った。

なるほどその通り、と当時は納得していたが、
それってそもそもデカい外部のモノ=大自然なのでは?
と思ってしまったわけだ。

日本の神は荒ぶる神である。
優しくて穏やかで導いてくれる父なるGODではない。
勝手にあばれ、破壊して、好きなタイミングで去っていく神である。
それは洪水や地震の擬人化と言われている。
それはコントロールできない以上、
できるだけ静かにしてもらって、来たら諦めてなるべく早く日常を回復する、
というのが日本人の感性であるように思う。

これが、
日本の伝統的な物語観に影響していると僕は思う。

つまり、
「事件や他者の環境変動に対して、
リアクションしているだけの主人公」を生みがち、
ということだ。

自分から何もせず、
誰かにやってもらう、生かしてもらうことによって、
生きていく、という行動原理だ。

雷に打たれる、
寺に拾われる、
ケーキと時代劇に感動する、
稽古をつけてもらう、
切られ役としてバイトする、
大役をオファーされる、
などなど、
「事件がやって来る」ことばかりで、
高坂はリアクションしかしていない。
アクションとしてあったのは、
心配無用の介に助太刀いたす、と、
オファーをいったん断ることと、
真剣での殺陣を所望する、
くらいしかない。

すなわちそこに、センタークエスチョンがないのだ。

映画は日常ではない。
非日常である。
それはよい。
江戸時代からタイムスリップしてきた侍が、
時代劇の切られ役になる、
という非日常はおもしろい。

だけど、「非日常を開拓して、何かを自ら成し遂げる」が、
この映画には存在しない。
「ただ反応しているだけの人」になってしまっている。

そもそも大役を引き受けたのは、師匠の「役者というものは」
という演説を受けてのものであり、
高坂が自ら望んだことではないし。

センタークエスチョンは、一幕から、
「主人公は〇〇を成し遂げられるか?」の形をしている。

この映画には、その芯がないのよね。
なんとなくあるよ。
「私は侍として何ができるだろうか?」くらいかな。
これは答を持っていない。
むしろこれは「答を途中で見つける」タイプだと言える。
やって来た環境の周囲から、
これが自分のやりたいことか、と見つける話だ。
それは、日本人的な物語だなあ、
と思ったわけだ。
つまり、日本人的な物語には、
周囲の環境に流され、反応しているうちに、
いつか自分のやりたいことを見つけて、
それをなす、
ということしかない。

「何かの目的を最初から持ち、遂行して、失敗して、
ついに成功する」
という西洋脚本論的な背骨を持っていないんだよね。

それが最善の脚本論か、と言われると、
日本型にもいい所はあると思っているが、
だとしたら、
最初の問題、
動機に矛盾、疑問点があることが、
気になって来るわけさ。

「会津の者として、江戸幕府に加担していたことは、
間違いだったのでは?」と考えないわけはないよ。
現代のケーキや時代劇が泣くほど良かったのならね。

だから、
この物語は、
テンポはいい(編集や脚本によって)が、
意味が撚れていて、バラバラなのだ。

それがごまかされる程度には、
芝居や小ネタが良かったので、
僕は「まあええやん」という評価。

A級には至らないが、
小品、良品としてはええやん、
ということだ。


かつて松竹映画は、
こういう感じの映画を量産していたイメージがある。
今松竹ってどうなっているんだろ。
あんまり聞かないよね。
時代劇をよく作っていたイメージも、
山田洋二がいなくなったらどうするつもりなんだろうか。


この映画のような、
名作ではないが小品を、
たくさんたくさんつくればいいのに。
そうしたら一個当たりがあって、
それが次の自転車操業の資金になり……
というのが映画だと僕は思っていた。

どうも今はそうじゃないらしい。
毎度毎度製作委員会とリクープの話だ。
何の為に映画をつくるのか、
よくわからなくなっていると思う。
そして観客は何の為に映画を見るのか、
作る側が分っていないんじゃないか。
原作が実写化するから見るとか、
芸能人が出ているから見るのではないよね。

そこに「まこと」があるから、
人は映画を見るんじゃないか。



そうそう。オチ(というかサゲ)の3人目のタイムスリッパー、
必要だったかなあ。
要らないと思ったな。
あれがないとどうやって終わった?
「映画は成功して、平和が戻った」
だろうか。
で、それがどういう意味があるんだろう?と思う訳さ。

そうすると、この映画にはテーマがないことに気づく。
何をしたくてこれをつくったんだろう?が、
全然分からないのよね。
「心配無用の介」は、
か弱い庶民を助ける正義を描いているから、
(おもしろいかどうかは置いといて)明確なテーマがある。
「侍タイムスリッパー」に、何のテーマがあるんだ?
「時代劇再興」しかなくないか。

助監督の行動、「夜な夜なシナリオを書く」は、
叶ってもいないし、
映画つくるっていいね、
くらいしかなくないか。

まあ、そこがないから、
第三のタイムスリッパーで、
ごまかしたのだろうね。
(オチとは、すべてをテーマとしてまとめる役割を持つものだから、
この映画のラストシーンはオチではない。なのでサゲと書いた)

A級ではない、
と僕が断じるのもそこだな。
あればいいというわけではないが、
ないならないなりの、時間つぶしコンテンツに過ぎないよ。
それが「映画が素晴らしい」ことにはつながらないと思うんだ。
posted by おおおかとしひこ at 17:22| Comment(3) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
少し主題から逸れた質問失礼します(ご面倒でしたら無視してくださって構いません!)

例えばの話なのですが、映画同好会に入っているとして、自主制作映画を1〜2本作った程度の人から「次の作品の構想コンテを見て欲しい」と同好会メンバーに頼んできた、というシチュエーションがあったとして、その人たちが「侍タイムスリッパー」「チェンソーマン」「ハンターハンター」などを絶賛しているレベルの集まりです。
この人の作品も絶賛の嵐ですが、絶賛している人たちは誰も1作品も完成させたことがない、映像作品作りたいな〜程度のゆるふわ勢で、映画狂いでもない程度です。
RRRの凄さはまったく理解出来ずガワだけで熱い映画だ!というレベルの集まりに所属して、今こういう状況なのですが(説明が分かりにくくすみません)、大岡監督ならこの人の作品に対して本気の添削やコメントをしますか?
自分の作品の制作があるのと、その人のコンテや作品にセリフやキャラクターや脚本の才能がないと感じるので、本気のコメントをしても誰にも伝わらず引かれそうだな……と迷っています。
大岡監督がブログでよく書かれる「暗いと文句を言うよりも、進んで明かりを付けましょう」の精神は心の標語にしているのですが、迷っています。
大岡監督のご意見を伺えませんでしょうか?
お忙しい中突然申し訳ありません!
冒頭にも書きましたが、お手隙でなければ無視していただいて大丈夫です!
よろしくお願いします。
Posted by 自称弟子のれお at 2024年09月23日 23:20
>自称弟子のれおさん

相手が何を求めて批評を欲しがってるか、
読み取るところからですかねー。
その状況だと、
「自分の書いたものにいまいち自信がないので、
褒められることによって安心したい」
のではないかと思われるので、
そのレベルの求めに対して、
本当のことを言って切るのは得策でないような気がします。

その人と本気で付き合うなら本気の刃を振り下ろしてもいいけど、
たぶんそんな関係ではないのなら、
適当にお茶を濁すのが処世術かなあ。

昔の僕は尖ってたので、
本当のことをいうことがおもしろい教信者の仕事だと思ってたけど、
最近は相手の受け取れるレベルの栄養じゃないと死ぬな、
と思うようになりました。
昔はそれで潰れればそれまでと思ってたけど、
最近は自分がとどめを刺して恨みに思われるのは、
リスクとリターンがあってねえなと思うようになりました。

なので、一番気になるところだけ、
そこは突かれたくなかった、
一番嫌なところを指摘するにとどめるくらいが、
いい塩梅かなと。

付き合いが浅いと受け止める度量がわからないので、
それすらもひどいと言われることもありますが。

親切にするなら、
そのジャンルの名作を数点示すくらいかなー。
Posted by おおおかとしひこ at 2024年09月24日 04:43
お忙しい中本当にありがとうございます!!
とても参考になりました!

>「自分の書いたものにいまいち自信がないので、
>褒められることによって安心したい」
>のではないかと思われるので、
>そのレベルの求めに対して、
>本当のことを言って切るのは得策でないような気がします。

>その人と本気で付き合うなら本気の刃を振り下ろしてもいいけど、
>たぶんそんな関係ではないのなら、
>適当にお茶を濁すのが処世術かなあ。

まさにこんな関係だったので、さりげなく流す感じに留めておこうと思います。
ありがとうございました!!
Posted by 自称弟子のれお at 2024年09月24日 05:33
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