2025年01月10日

物語には理想を書く

現実に失望しているほど、理想を書いてしまいがち。


現実に失望していて、
「ほら、このように現実は厳しいのだ」と言いたい人は、
バッドエンドを書きがち。
でもまあ、そんなものを書いても、
書き続けることは難しいから、
そういう人は何本も書かなくなる。

書き続けられるのは、
ハッピーエンド系の物語だと思う。

で、そういう時に、
「世界はこうあって欲しい」という理想主義に、
なることが多いということだ。

たとえば、
信賞必罰であるべきだとか、
努力すれば誰かが見ているとか、
成功する人は陰で努力しているものだとか、
正義は実現するべきだ、
とかだろうかね。

ひどい現実を体験するほど、
せめてフィクションの世界は、理想であって欲しい、
という願望がどこかに出てしまうものだと思う。


で、それに対して客観的になれているか?
という話。

つまり、
「自分はある種の理想を物語に投影しているぞ」と、
自覚できるか?ということだ。


自覚したうえで、
それは良いからそのままでよい、と考えるか、
さすがに無理がある願望主義だな、
と思って修正するかは、
決めればよい。
客観的になっていれば、可能であろう。

客観的になっていないと、
「いや、これはこうあるべきなのだ」とか、
「それがないなんてありえない」とか、
感情論というか、当然の前提になってしまって、
議論できなくなってしまうことがある。
無意識のベースみたいなものだから、
それに気づくのが難しいんだよね。

なので、
「この無前提の理想は、
この物語にとってリアリティを確保しているだろうか?」
などのように、突き放して問うことが出来るか、
ということなんだよね。

逆の、
「当然この世界はひどい」という、
バッドエンドの前提になる世界認識すら、
ほんとうにそうだろうか、という疑問は出るよね。

なぜなら、世界はそんなにひどくないこともあるからだね。
それを経験している人が見て、
世界はひどいと言われても、説得力がないよな、
となったらおしまいなのだ。

つまり、
客観的に世界の前提を見ることは、
そうじゃない人に対しても、
そうだ、と言わせるほどの説得力をもって、
物語をつくっているか、
ということなのだ。

ハッピーエンドでもバッドエンドでもどちらでもよい。
理想の世界を描いて、
しかもそれに自覚的であることだ。

そうは思わない、という人であっても、
そうかも、そうだ、と思わせるほどの説得力を、
ちゃんと考えているか、
というのは案外重要だ。

理想だから、作者にとっては無前提になってしまうことが多く、
発見が遅れるんだよね。


「ひょっとして君、『陰気で頭よさそうな男がギャルにモテる』
って世界観を理想にしてないか?」
と問うことが、たとえば出来る。
そのときに、
それが単なる夢想なのか、
それとも説得力をもって世界を構築しているかは、
世界次第になってくる。

理想は一種の夢想だよね。
集合的無意識に同じ理想をもっている場合もあれば、
一部の人しか持ちえない理想もある。
それを自覚して、
集団的無意識にまで拡大して巻き込んでいくのが、
マスの物語のやっておくべきことだ。
posted by おおおかとしひこ at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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