現実に失望しているほど、理想を書いてしまいがち。
現実に失望していて、
「ほら、このように現実は厳しいのだ」と言いたい人は、
バッドエンドを書きがち。
でもまあ、そんなものを書いても、
書き続けることは難しいから、
そういう人は何本も書かなくなる。
書き続けられるのは、
ハッピーエンド系の物語だと思う。
で、そういう時に、
「世界はこうあって欲しい」という理想主義に、
なることが多いということだ。
たとえば、
信賞必罰であるべきだとか、
努力すれば誰かが見ているとか、
成功する人は陰で努力しているものだとか、
正義は実現するべきだ、
とかだろうかね。
ひどい現実を体験するほど、
せめてフィクションの世界は、理想であって欲しい、
という願望がどこかに出てしまうものだと思う。
で、それに対して客観的になれているか?
という話。
つまり、
「自分はある種の理想を物語に投影しているぞ」と、
自覚できるか?ということだ。
自覚したうえで、
それは良いからそのままでよい、と考えるか、
さすがに無理がある願望主義だな、
と思って修正するかは、
決めればよい。
客観的になっていれば、可能であろう。
客観的になっていないと、
「いや、これはこうあるべきなのだ」とか、
「それがないなんてありえない」とか、
感情論というか、当然の前提になってしまって、
議論できなくなってしまうことがある。
無意識のベースみたいなものだから、
それに気づくのが難しいんだよね。
なので、
「この無前提の理想は、
この物語にとってリアリティを確保しているだろうか?」
などのように、突き放して問うことが出来るか、
ということなんだよね。
逆の、
「当然この世界はひどい」という、
バッドエンドの前提になる世界認識すら、
ほんとうにそうだろうか、という疑問は出るよね。
なぜなら、世界はそんなにひどくないこともあるからだね。
それを経験している人が見て、
世界はひどいと言われても、説得力がないよな、
となったらおしまいなのだ。
つまり、
客観的に世界の前提を見ることは、
そうじゃない人に対しても、
そうだ、と言わせるほどの説得力をもって、
物語をつくっているか、
ということなのだ。
ハッピーエンドでもバッドエンドでもどちらでもよい。
理想の世界を描いて、
しかもそれに自覚的であることだ。
そうは思わない、という人であっても、
そうかも、そうだ、と思わせるほどの説得力を、
ちゃんと考えているか、
というのは案外重要だ。
理想だから、作者にとっては無前提になってしまうことが多く、
発見が遅れるんだよね。
「ひょっとして君、『陰気で頭よさそうな男がギャルにモテる』
って世界観を理想にしてないか?」
と問うことが、たとえば出来る。
そのときに、
それが単なる夢想なのか、
それとも説得力をもって世界を構築しているかは、
世界次第になってくる。
理想は一種の夢想だよね。
集合的無意識に同じ理想をもっている場合もあれば、
一部の人しか持ちえない理想もある。
それを自覚して、
集団的無意識にまで拡大して巻き込んでいくのが、
マスの物語のやっておくべきことだ。
2025年01月10日
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