全力を持ってしあげる、
それは芸術をやる上で当然ともいえる。
膨大に考えたことを、
一個に煮詰めて、巨大な質量として出す、
そうしたいのは山々だ。
ところが、我々がやっていることは、
庶民の娯楽でもある。
そんな全てを込めた重たい一撃を、
放っても受け止めきれないことがある。
中国拳法の世界では、
「晩年の型」のように言われることがある。
八極拳の達人、李書文には何人もの弟子がいるが、
若い頃の弟子に伝えた型と、
晩年の頃の弟子に伝えた型が、
ずいぶん異なることがわかっている。
若い頃の型は、
動作が派手でわかりやすく、
使い方も明瞭で、
誰もが八極拳とはこう戦うのか、をイメージしやすい。
ところが晩年の型になると、
「生涯の鍛錬を込めた、本質だけを残す」
傾向があるため、
わかりにくくなるのだ。
一体これが何の役に立つのかわからないし、
基本形をやった上でないと理解できない境地に至った、
「来れるものならここまで来てみろ」
みたいな、老人のドヤ顔みたいな型になっているらしい。
なんでも「道」のつくものはそうかも知れない。
書道とか、達筆すぎてようわからんとか、
華道とか、何が美しいのかようわからんとか、
絵画とか、抽象画ってなんなんとか、
音楽とか、プログレってなんなんとか、
そういうやつだ。
簡単なものをやりすぎて、
なんなら飽きてきて、
こうしないと面白くねえ(観客が、ではなく作者が)、
と思って、どんどんアレンジしていくやつね。
ヒット歌手がその歌を歌いすぎて、
晩年アレンジが効きすぎてる、
みたいな現象もそうだろう。
僕らは、CD音源どおりの歌い方を聞きたいのにね。
この、大衆の気持ちと、
作り手側のひねくれの、
両方を俯瞰しなければならない。
合気道や太極拳も同じだね。
理論的に難しすぎて普通はわからない。
相対性理論も、
アインシュタインが27歳の時につくった特殊相対論や、
ローレンツ変換は、
高校数学や物理でも理解できる内容だけど、
その後の一般相対論は、
テンソルやら偏微分やら複素を扱えないと理解できない。
漫画を例にあげれば、
「ハンターハンター」は、
考えすぎてて分かりにくい。
作者的には、練りに練った頭脳戦の果て、
という新境地にいるつもりなのかもしれないが、
ぶっちゃけ幽遊白書の勢いの方が楽しかったりする。
井上雄彦の「バガボンド」も、
農業やり始めてから訳がわからぬ。
十文字槍とかやってた頃がわかりやすかったし、
そんなんいえばスラダンの庶民シュートの方がよかった。
つまり、
精魂込めた一撃は、
その精魂込めるまでの「時間の練り」が必要であるがゆえに、
その分は伝わらない、
ということなのだ。
8時間煮込んだシチューよりも、
ちゃっと炒めた簡単クッキングのほうが、
喜ばれるというわけだ。
庶民はバカ舌である、
だからバカに合わせろ、
と言っているわけではない。
大衆娯楽はどこか風通しがよい、
透明な、あけすけなものであるべきだ、
という話をしている。
隠しているところや、
わからないところや、
闇がないほうが、
好かれるという話をしている。
どっちが最強かとか、
世の中の真実に近づいてるかは、
問題ではない。
問題は、あけすけで分かりやすいか、
という話である。
若者は、ともすると、
わかりにくく、影があり、
解読が全ての人にできない暗号のようなものを、
作品に仕込みたがる。
それは、
「俺はここまですごいものを作ったぞ」
というドヤ顔をしたいのだ、
と自覚するべきだ。
じゃあ、その部分はなしにするべきか?
いや、少しだけ闇があった方が、
完全に明るいより魅力がある。
その塩梅を探せ、
というのが結論だ。
庶民には難しすぎる、庶民はドン引きする、
バカが喜ぶだけ、文化の香りもない媚び、
の、両方を考えて、
親しみやすく、入りやすく、わかりやすく、
それでいて底がしれないものをつくれ、
ということである。
大衆食堂でありながら、
権威あるフレンチのシェフを超えたものをつくれ、
というわけである。
その塩梅、匙加減は難しい。
何本も書いて、バランスを取る練習をしなさい。
毎回同じところになる人もいるし、
バラバラの人もいるだろう。
それらがちょうど良くなったときに、
ヒットはやってくる。
2025年01月20日
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