2025年01月20日

全てをこめないこと

全力を持ってしあげる、
それは芸術をやる上で当然ともいえる。
膨大に考えたことを、
一個に煮詰めて、巨大な質量として出す、
そうしたいのは山々だ。

ところが、我々がやっていることは、
庶民の娯楽でもある。

そんな全てを込めた重たい一撃を、
放っても受け止めきれないことがある。


中国拳法の世界では、
「晩年の型」のように言われることがある。

八極拳の達人、李書文には何人もの弟子がいるが、
若い頃の弟子に伝えた型と、
晩年の頃の弟子に伝えた型が、
ずいぶん異なることがわかっている。

若い頃の型は、
動作が派手でわかりやすく、
使い方も明瞭で、
誰もが八極拳とはこう戦うのか、をイメージしやすい。

ところが晩年の型になると、
「生涯の鍛錬を込めた、本質だけを残す」
傾向があるため、
わかりにくくなるのだ。
一体これが何の役に立つのかわからないし、
基本形をやった上でないと理解できない境地に至った、
「来れるものならここまで来てみろ」
みたいな、老人のドヤ顔みたいな型になっているらしい。

なんでも「道」のつくものはそうかも知れない。
書道とか、達筆すぎてようわからんとか、
華道とか、何が美しいのかようわからんとか、
絵画とか、抽象画ってなんなんとか、
音楽とか、プログレってなんなんとか、
そういうやつだ。

簡単なものをやりすぎて、
なんなら飽きてきて、
こうしないと面白くねえ(観客が、ではなく作者が)、
と思って、どんどんアレンジしていくやつね。

ヒット歌手がその歌を歌いすぎて、
晩年アレンジが効きすぎてる、
みたいな現象もそうだろう。
僕らは、CD音源どおりの歌い方を聞きたいのにね。


この、大衆の気持ちと、
作り手側のひねくれの、
両方を俯瞰しなければならない。

合気道や太極拳も同じだね。
理論的に難しすぎて普通はわからない。

相対性理論も、
アインシュタインが27歳の時につくった特殊相対論や、
ローレンツ変換は、
高校数学や物理でも理解できる内容だけど、
その後の一般相対論は、
テンソルやら偏微分やら複素を扱えないと理解できない。

漫画を例にあげれば、
「ハンターハンター」は、
考えすぎてて分かりにくい。
作者的には、練りに練った頭脳戦の果て、
という新境地にいるつもりなのかもしれないが、
ぶっちゃけ幽遊白書の勢いの方が楽しかったりする。

井上雄彦の「バガボンド」も、
農業やり始めてから訳がわからぬ。
十文字槍とかやってた頃がわかりやすかったし、
そんなんいえばスラダンの庶民シュートの方がよかった。


つまり、
精魂込めた一撃は、
その精魂込めるまでの「時間の練り」が必要であるがゆえに、
その分は伝わらない、
ということなのだ。

8時間煮込んだシチューよりも、
ちゃっと炒めた簡単クッキングのほうが、
喜ばれるというわけだ。

庶民はバカ舌である、
だからバカに合わせろ、
と言っているわけではない。

大衆娯楽はどこか風通しがよい、
透明な、あけすけなものであるべきだ、
という話をしている。

隠しているところや、
わからないところや、
闇がないほうが、
好かれるという話をしている。

どっちが最強かとか、
世の中の真実に近づいてるかは、
問題ではない。

問題は、あけすけで分かりやすいか、
という話である。


若者は、ともすると、
わかりにくく、影があり、
解読が全ての人にできない暗号のようなものを、
作品に仕込みたがる。
それは、
「俺はここまですごいものを作ったぞ」
というドヤ顔をしたいのだ、
と自覚するべきだ。

じゃあ、その部分はなしにするべきか?
いや、少しだけ闇があった方が、
完全に明るいより魅力がある。

その塩梅を探せ、
というのが結論だ。


庶民には難しすぎる、庶民はドン引きする、
バカが喜ぶだけ、文化の香りもない媚び、
の、両方を考えて、
親しみやすく、入りやすく、わかりやすく、
それでいて底がしれないものをつくれ、
ということである。

大衆食堂でありながら、
権威あるフレンチのシェフを超えたものをつくれ、
というわけである。

その塩梅、匙加減は難しい。

何本も書いて、バランスを取る練習をしなさい。
毎回同じところになる人もいるし、
バラバラの人もいるだろう。
それらがちょうど良くなったときに、
ヒットはやってくる。
posted by おおおかとしひこ at 08:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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