2024年10月14日

悪役というコントラスト(「チ。地球の運動について」評3)

この物語が優秀なのは、悪役によると思う。
以下ネタバレで。


ノヴァクという元傭兵にして異端審問官。
もともと協会の人間ではないから、
仕事をして認められなければならないという立場と、
元傭兵だから残忍な拷問を知ってても不思議ではない、
という、仕事に冷徹で狡猾な男。

この男が全編にわたって登場することが、
この物語を面白く見せている。

前項の議論から、
物語とはコントラストによる対立である。
だから闇が深い方が、光が際立つのだ。
もしこの男が単なる教会の神父であったら、
ここまで面白くはならなかっただろう。
残忍で狡猾で、神父にいないタイプだから、
恐怖を感じるわけだ。

ネガティブな感情がすべてこの男に集約している。
だから多くの主人公の動機は、
「この男から逃れること」である。


思想的対立はない。
この男は天動説を信じているわけではない。
ただ、職務に忠実なだけ。
人間として会話できない感じもよい。
ターミネーターでいえばT2000だ。
機械のように冷徹で、蛇のように執念深い。
だから怖いのだ。それがよい。

この男がいなければ、
ここまで主人公サイドが盛り上がることはなかった。
この男の存在によって、
主人公サイドの光がより強くなる。
「ノヴァクに負けないこと」が、
自分たちの動機を強くする。
「親に禁止された恋愛ほど盛り上がる」ことと、
原理は同じだ。


多くの物語において、
悪役は決定的に重要な役割を果たす。
ルークスカイウォーカーは魅力的な主人公ではないが、
ダースベイダーの存在によって、
急に主人公になれる。

悟空は、ケンシロウは、ピッコロやベジータ、ラオウによって、
急に主人公になれるのだ。
(聖闘士星矢がポセイドン編以降盛り上がらなかったのは、
敵役がそれまでの敵、黄金聖闘士よりも魅力がなかったからだ)

敵が、無慈悲で強力で、話し合う余地がない、
ものすごい敵であるほど、
話は盛り上がる。
ハンターハンターのキメラアント編が圧倒的に面白いのは、
敵の魅力に依存しているからだ。
王メルエムが強大であればあるほど、
それにぶつけるネテロなどが面白く見えてくるわけ。
影があって、光を感じれるんだな。
あー、亜人の細目もよかったね。


娘が異端者である展開、
その娘が身代わりで死んだと思っている展開は、
かなり面白かった。
感情を表さない男が、感情を表す展開は面白いからね。
それを、手袋という小道具に象徴したことも優秀だ。

だからこそ、最期に娘と再会してほしかったなあ。
娘は成長して解放戦線のボスになっていたのだから、
そこの再会は非常にドラマチックになっていたのに、
とても勿体なかった。
ラファウの幻とかと会ってる場合じゃなかったと思う。

だから、
この男の死が、物語の終わりなんだよな。
最終章の失敗は、
この男をその前に死なせてしまったことだろう。

最後のアンカー、アルベルトと、
微妙にすれ違って死ぬ、
くらいにできなかったのかなあ。
「チ。」は、終わり方を間違えた作品だと僕は思う。
稀代の悪役の死こそが、
物語の結末と一致するべきだろうに。

この男が全主人公と会っている、
という構造はとても面白い。
だからつまり、「チ。」とは、
ノヴァクと石箱の物語である、
といっても過言でないのかもしれない。
ジョジョがディオと波紋の話である、
ということと同様に。



脚本論的には、
このような悪役を生み出せるか?
ということになってくる。
こういう悪役を生み出せれば、
脚本家としては万々歳だよね。

アンチテーゼの反対がテーマだ。
だから、悪役は物語の補集合なのだ。
posted by おおおかとしひこ at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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