2024年10月17日

興行に作品性は必要か

という極論を考えてみよう。


興行の本質は祭りである。
あなたが祭りを開催する人だとしよう。
祭りは定期的に開催する。
一年に一回の祭りを考えよう。
出し物を集めて、場所を取り、
色んな人が来るような仕掛けを考える。
かなり前から周到に準備して、
「祭りがあるから」と色んな人を説得して、
ついに開催して、みんな楽しかったと喜んで、
ついでに儲けるわけだ。

祭りは、人々は楽しく、
店を出す人は儲かる。
ウィンウィンのビジネスだ。
そして、大事なことなのだが、
一回成功したら、次も祭りはある、ということだ。
一年に一回やるなら、来年もやる。再来年もやる。
そうやって祭りは定着して、それが歳時記になる。

さて。その祭りを、56週にしたものが映画である。
あなたはその祭りをビジネスにする人だと想像しよう。

毎週毎週週末に祭りがある。新作が公開されるわけだ。
56本新作がなくてもよい。28本にしておいて、
公開週とそうじゃない週が交互に来てもよい。
まあ、なにかしら週末に祭りをやり続ける人、
が興行をする人だ。

どんなものがラインナップにあれば、
飽きられず、高収入になるだろう?
色んなジャンルのものが入れ替わり立ち替わりくるといいはずだ。
同じものが何個もあったら飽きられる。
だから、色んな色があるとよい。

で。
こうした俯瞰の状況のときに、
個々の作品性が重要だろうか?

そうではないだろう。
56週がトータルで儲かるために目玉の週をいくつか決めて、
そこに全力を投入しつつ、
マイナーな週も実験をしつつ回収したいだろう。

損はしてもまあいいが、全体としては、
祭りを維持していくだけの儲けは出さなくてはいけない。
そうしないと、祭りは終わってしまう。
興行とは、そのような自転車操業だ。

作品性が重要だろうか?
そうではないだろう。
個々の週がそこそこ儲かり、大ヒットがいくつかあれば、
大体儲けの見込みは立つだろう。
作品性というよくわからないものよりも、
儲けが見込めて、来年の56週も祭りが続けられることを望むだろう。

もちろん作品性があり、大ヒットにつながったスタッフたちには感謝したいが、
来年も同じヒットを期待するのは過剰だろう。
もちろん後世まで語り継がれるような、
「あの興行は名作だった」というものは排出するだろうし、
それが目玉になるかもしれないが、
一回の成功が必要なのではなく、
56週、何年も成功が必要なのだ。

その名作が、毎年の祭りのこの時期の定番になるような、
レギュラーになればラッキーだ。
それがシリーズものや、リメイクものになるわけ。

作品性が必要だろうか?
世間の祭りは作品性があるか?
作品性があるから人は集まっているか?
そうじゃないよね。
盆踊りは盆踊りがしたいから集まっているわけで、
その新規性、作品性を評価しに来ているわけではない。
屋台の焼きそばに作品性が必要か?
歴史を変えるほどのうまい焼きそばである必要性はあるか?

その作品性が高いことよりも、
「みんなが集まってわいわい騒ぐ」ことが、
祭りの本質である。
ということは、
カリスマが来るかどうかのほうが重要だ。
すなわち神である。
祭りの神は、スタアである。
その周りに人々が集まり、
わっしょいわっしょいとなるわけだ。
そこに作品性はない。

だから、
興行から見て、作品性は二の次である。
名作かどうかも重要ではない。
せいぜい、名作は単発で儲かることとか、
リバイバルしても客が入って、繰り返し儲けさせてくれるもの、
という認識なんじゃないか。

祭りをやりたい人は、
56週飽きられず、わっしょいわっしょいをやって、
楽しかったねー、と次も来てもらうことが目的だ。

名作かどうかはどちらでもよい。


さて。単純化して興行というものを考えた。
大きくは間違っていないだろう。
もちろん、昔から映画好きで、
名作でないものは映画ではない、と思っている興行主もいるだろう。
しかし興行主になることと、
作品の作者になることはまったく異なる能力だから、
興行主が名作をつくれるわけではない。
名作が生まれかかっているとしても、
どうしたらより名作になるか、どうしたら名作未満が台無しになるのかも知らない。

だから興行主は、
祭りが継続することが目的で、動機だ。
名作や作品性は置いておく。


この回転の中に、
我々の作品が投入される。

祭りになるだろうか?
感動や爆笑は必要だ。祭りのにぎやかしになる。
退屈は祭りではない。

だけど、見た人が人生を変えるような衝撃は、
祭りにいるかなあ。
一回の祭りにいるかいらないかじゃなくて、
56週、毎年毎年続く祭り、という流れにおいてだ。
たまにあって、目先が変わるのはいいよ。
でも毎回それは、極論いらないんじゃないかなあ。

にぎやかし。
それこそが祭りの正体である。
にぎやかすから、みんなでワイワイやろうぜ、
が祭りだ。
興行主は、作品はいらない。
極論すると、そう見えるね。


自分が映画館を持ってて、
映画の仕入れがその映画館のブランドになっているような、
小劇場は別だと思う。
館主の仕入れのセンスが、作品性のようなものだ。
だけどそうした小劇場は、老朽化して、館主も高齢化して、
どんどん閉まり始めているような気がする。

大型の映画館は、興行を続けている。
そこに作品性は必要なのかなあ。
ちょっと分からなくなってきた。

観客の目が肥えないと作品性は分らない。
つまり、祭りをうまくやるコツは、
祭りを学習させないことなんじゃないか、
とすら思ってしまう。

いや、うちは作品性がメインです、芸術性がメインです、
という映画館はあるんだろうか。
あっても知られていないし、メジャーにならないのは、
なんでやろ、と思ったわけ。
恵比寿ガーデンプレイスや渋谷シネマライズが元気だったころに比べて、
観客の目は肥えただろうか。


だから、我々作品性の高いものを作りたい人は、
どうしたらいいかな?

興行に乗っかるものを企画して、
その中に作品性を忍ばせて、
「興行として出すつもりだったのに、
作品性も高くて、蓋を開けたら大好評」
というものが理想なんじゃないか。

つまり、
企画書は、まず興行の列の中に入れるか?
という所が観点なのよ。
56週のラインナップに入れて、
祭りを継続させられるのか?という所なんだよ。
新規性があり、しかも安心して任せられるのか、
という点が重要になってくる。
興行から見たらね。

だから、
〇〇で成功した手法を使い、とか、
人気〇〇を使い、とか、
原作がヒットしたので、
という安易な方法が、祭りのラインナップになるわけ。
「まだ誰も見たことがないが、
完成したら名作になり、映画史を変える」
ものは、56本の中に1〜2本あればいいだけのことだ。
興行を続けていくことを考えれば、
リスク計算をどれだけしているかによるだろうね。


さて。
あなたはどういう企画をするか?
そして、その中にどのように、
作品性を融合させていくか?
作品作りと興行性という、
おそらくは真逆の観点を、
両方満足させられているか?

映画館という祭りは、
名作が作れなくても構わないのよ。
映画祭に行って、海外のを買ってくればいいんだから。
いや、国産の名作を連発したい、
と思っていないと思うんだよな。
だから脚本にシビアになっていない。
だから企画書だけ見て、祭りのラインナップを考えるだけだ。


興行が浅いと批判しているわけではない。
興行には興行の都合がある。
僕らが観客として深すぎて、
名作を沢山見ているから、よりよい名作を見たいだけで、
つまりは贅沢に映画を見たいだけなのだ。

だから我々は、
作品性が高く、しかも興行になるものを、
書くべきなのだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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