2024年10月19日

名前を得ると概念として受肉する

ふわふわとしたアレコレを、強制的に名前をつけるとよい。
そうすると概念になってしまう。
思考は概念によってなされる。
概念化は、名前があるかないかで決まる。

とあるツイートがバズって、
スヤスヤ教という名前を得た瞬間、
他人にも説明できる概念になった、
というこの三日間の流れがかなりおもしろかった。


その始まりのツイート。

> 様々な面倒事を「宗教上の理由」で断る口実のためだけの、生活宗教とか立ち上げてみたいですね。 教義は「ちゃんと寝ろ」 御神体は布団。毎日神と一体化することが義務づけられる。 睡眠は神事なので、睡眠時間を削りそうな行事は「宗教上の理由」で断ることができる、みたいな。

たとえば巨人に関することは、
僕は阪神教なので全て宗教上の理由で断れる。
こうした、
「宗教上の理由で」は、
日本人の生きる知恵のひとつである。
「波風立てず穏便に断りたい」という欲望は、
日本人に特に強いように思われる。

で、
「早く帰れて徹夜仕事も断れる」のを、
宗教上の理由に出来るといいなあ、
というふわっとしたものに、
スヤスヤ教という名前がついた瞬間、
それらのニュアンスを説明しなくて済む、
ショートカットができたわけだ。
https://x.com/minerva_owl1/status/1845773464550129899


それを概念という。

概念は、そのふわふわを説明することなく使える、
思考のショートカットである。

そこに名前がつくと、
概念になるのだ。



物語を書く時に、
主人公やヒロインの名前を決めよう。
タイトルを決めよう。

そうなると、
「私が今書いているふわふわとしたもの」が、
急に概念化するんだよね。

謎の敵の組織というふわふわしたものも、
ショッカーやゼーレと名前がついた瞬間、
具体化がすすむ。

進めたくない場合、逆に「黒の組織」のような、
ふわふわネームにすると長持ちする。

「生き別れた兄がいる」という状態と、
「健一が北海道にいる」という状態は違う。
「好きな人がいるの」という状態と、
「タクヤくんが好き」という状態は違う。

名前をつけることはそれだけで概念化を進めるのだ。


ネルヴァーナや寝槃、スーヤ派やフロテスタントなど、
どんどん用語が開発されてておもしろい。
それも、スヤスヤ教という概念化がなされて、
具体になったからだ。

具体は他の具体をよぶ。
ある一個だけそこに存在せずに、
周りの具体との関係性を持つからだ。

つまり概念はネットワークをもつ。

名前をつけた瞬間、
どこにも接続されてない特権はなくなり、
具体のネットワークの中に落ちるのだ。

「脚本を書いてます」なんてふわふわした状態ではなく、
「○○○というタイトルの話を書いてます」になると、
急にシビアになるのと同じである。
posted by おおおかとしひこ at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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